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五感に境界はあるのだろうか?
今日は『触楽入門 -はじめて世界に触れるときのように-』(著:テクタイル)から「色えんぴつを並べるように、触感を分類してみよう」を読みました。
昨日は「基本的な触感は存在するだろうか?」という問いに触れました。味(味覚)は「甘味・酸味・塩味・苦味・うま味」という5つの要素から成るように、色(視覚)は「赤・緑・青」という3つの要素から成るように、触感にも基本的な要素があるのだろうか、という問いです。
これを探るアプローチは2つあり、感覚神経の物理的な仕組みにもとづいて分類していく工学的方法、もう一つは主観的な感覚にもとづく心理学的方法です。後者は何かのものに触れたときにどのように感じたかを言葉で表し、それらを分類していく方法です。
こうした手法を用いた研究によれば、触感の80%は「硬軟、冷温、乾湿、粗さ」という4要素で説明ができるとのこと。残る20%は未知だそうです。
さて、今回読んだ範囲では「五感の境界はあるのか?」というテーマが展開されています。とても興味深い問いです。
聴いているけれど触れている感覚
著者は「五感には境界があるのか」という問いを考える題材を提供してくれています。
みなさんは、風鈴の音を聴いて、「涼しいな」という感覚、つまり触覚を感じたことはないでしょうか。あるいは、タンポポの綿毛を見て「ふわふわしているなあ」と思ったり、辛い物を食べて、とがったものを連想したり。 私たちがなにかを感じているときに起きていることを観察してみると、触感とは必ずしも触れたときにのみ生じているのではなく、見た目や音からも自然と喚起されていることに思い当たります。
風鈴の音から涼しさを連想する。その感覚に共感しました。趣味でサックスを演奏していたこともあり「音の質感」というものが存在するという実感があります。ザラザラした音、なめらかな音。鋭い音、柔らかい音。音の高低だけではない、奥行きがたしかに存在している。
楽器の素材、発音方法、そして奏者の身体という無数の要素が組み合わさることで多様な音色が生まれ、同じ曲でも異なる表情が見えてきます。
また、日常生活の中で「声の質感」にも意識が向きます。みずみずしい声、どこかザラザラした声、ふんわりと柔らかいした声。声の質感はときとして布や水などの質感に変換されて感じることがあります。シルクのような艶やかな声、リネンのようなふんわりしているけれど芯のある声、など。
自分の原体験としても、音と触覚はつながっていると感じています。
五感は「ふれる」に通ず
著者は、彫刻家の高村光太郎のエッセイ『触覚の世界』から一部を引用して「五感には明確な境界がないというより、すべては触覚に通じている」との考え方を紹介しています。
このように彼は、色彩、音楽、香り、味覚も触覚であると言っています。このあとの部分では、さらに、「五官は互に共通しているというよりも、殆ど全く触覚に統一せられている」とも述べています。高村光太郎にとって、世界を感覚する行為というのは、すべてが触覚だと感じられていたのでしょう。光であろうと、音であろうと、匂いであろうと、味であろうと、ヒトは情報源となるものに、実際に「触れる」ことによって、それを感じ取っていることに変わりはありません。これは、外界から情報を取り出すときの方法として、どんな動物にも共通しています。
何かを食べた時に味を感じるのは、食材の微分子に触れているから。香りを感じるのは、香りのもとになる微分子に触れているから。色を感じるのは、光線、つまり光の波という振動に触れているから。音が聞こえるのは、音という振動に触れているから。
感じることのすべては「触れる」ことから始まっている。たしかにそうかもしれません。触れる対象に合わせて触れ方が異なるにすぎない。
「共鳴する」
微かな振動であっても共鳴して感じとれるような「しなやかさ」が必要だと感じます。
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