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喜び、呼び水、そして懐かしさ。

今日もまた、高木正勝さん(映像作家・音楽家)のエッセイ集『こといづ』を読み返している。タイトルの意味はおそらく「こと(言・事)いづ(出づ)」ではないかと思うのだけれど、高木さんという泉からこんこんと湧き出てくる澄みわった湧き水のような言葉がいくつも散りばめられている。

じっくり、じっくり。みずみずしい言葉の響き、リズムが感じられて、言葉の一つひとつに「水」のようなしっとりした質感があるように感じられてくる。

高木さんが奏でるピアノも本当にみずみずしい。まばゆい水しぶきが世界に舞い散り、何かを物語っているような。耳にするたびに心が踊る高木さんの楽曲『Girls』を聴いて頂ければ、この感覚が少しでも伝わるかもしれない。

さて、今日もまず、高木さんの言葉をいくつか引いてみたい。

「呼び水」という言葉がある。井戸のポンプから水が出なくなった時、ポンプに水を注ぎ込むと再び水が出るようになる(映画『となりのトトロ」でもやっていた)。水が水を呼ぶ。同じ処方を人の人生にも充てられないだろうか。僕がつくる音楽や映像は、ときどき「懐かしい」と言われたり「ノスタルジック」と言われたりする。僕はそれを最高の賛辞として受け取ってきた。自分の作品はともかく、僕は「懐かしい」と感じるものや人、景色が特別に好きだ。

高木正勝『こといづ』なつかしや、わがともよ

誰かがつくったものに触れて「なんだか懐かしい」と感じたことはないだろうか? 初対面なのに「あ、この人、懐かしい」と感じたことはないだろうか? はじめて出向いた場所なのに「懐かしい」と感じたことはないだろうか? 何かに接して「懐かしい」と感じるのは、「自分の中にすでにあるものに」触れたからだ。たとえ忘れてしまっていても、あらゆるものが自分の中に残っているはず。人生の節目節目で蓋をして追い出してしまった過去の自分は、僕たちが忘れてしまっているだけで、今も自分の中で生き続けているに違いない。もう一度、捨ててしまった自分と出会いたければ、蓋を外せばいいのだろう。蓋を開ける鍵は、どこにどんな形で転がっているのだろう。

高木正勝『こといづ』なつかしや、わがともよ

もし、すべての自分を取り戻せることがあったとして、そんな自分、ずいぶんヘンテコでおもしろそうだ。想像もできない。僕はそんなヘンテコな自分に会いたい。ヘンテコなあなたに会いたい。

高木正勝『こといづ』なつかしや、わがともよ

今回の言葉で印象的だった言葉は「呼び水」「懐かしさ」

どんな時に自分の内側から「懐かしさ」が湧き上がってくるだろうかと考えてみると、私の場合は「即興的な」遊びの感覚、直感、インスピレーションが降りてくるときが一つの答えだと思っている。

たとえば、何かの本を読んでいると、その本とはまったく別のテーマの本に書かれていた言葉が突如として浮かんできて、その浮かんできた言葉の意味がまったく分からなかったのに、曇り空が突然晴れ渡るように、色鮮やかに「言葉と言葉の間の線」「つながり」が感じられる瞬間がある。

そのつながりは「証明を求めるような正しさ」というよりも、どこか美しいと感じられるもので、一見つながっているように思えない言葉と言葉のつながりが一度見出されると、その言葉と言葉のかたまりが、それこそ「呼び水」として、自分に眠っている数多の言葉の泉から自然と吸い寄せられるように何かの言葉が湧き上がってくる。

そして、予期せぬ言葉、意味との再会は私にとって「即興的な遊びの感覚」を伴っていて、そこには再会による「懐かしさ」と「喜び」がある。

そう思うと、「喜び」というのは外から与えられるものではなくて、自分の中にある何かと再会、再発見したりする中で見出される「新鮮な懐かしさ」こそが喜びの源泉なのではないだろうか。

最近「懐かしい」と感じたこと、何かあるだろうか。

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