喜び、呼び水、そして懐かしさ。
今日もまた、高木正勝さん(映像作家・音楽家)のエッセイ集『こといづ』を読み返している。タイトルの意味はおそらく「こと(言・事)いづ(出づ)」ではないかと思うのだけれど、高木さんという泉からこんこんと湧き出てくる澄みわった湧き水のような言葉がいくつも散りばめられている。
じっくり、じっくり。みずみずしい言葉の響き、リズムが感じられて、言葉の一つひとつに「水」のようなしっとりした質感があるように感じられてくる。
高木さんが奏でるピアノも本当にみずみずしい。まばゆい水しぶきが世界に舞い散り、何かを物語っているような。耳にするたびに心が踊る高木さんの楽曲『Girls』を聴いて頂ければ、この感覚が少しでも伝わるかもしれない。
さて、今日もまず、高木さんの言葉をいくつか引いてみたい。
今回の言葉で印象的だった言葉は「呼び水」と「懐かしさ」。
どんな時に自分の内側から「懐かしさ」が湧き上がってくるだろうかと考えてみると、私の場合は「即興的な」遊びの感覚、直感、インスピレーションが降りてくるときが一つの答えだと思っている。
たとえば、何かの本を読んでいると、その本とはまったく別のテーマの本に書かれていた言葉が突如として浮かんできて、その浮かんできた言葉の意味がまったく分からなかったのに、曇り空が突然晴れ渡るように、色鮮やかに「言葉と言葉の間の線」や「つながり」が感じられる瞬間がある。
そのつながりは「証明を求めるような正しさ」というよりも、どこか美しいと感じられるもので、一見つながっているように思えない言葉と言葉のつながりが一度見出されると、その言葉と言葉のかたまりが、それこそ「呼び水」として、自分に眠っている数多の言葉の泉から自然と吸い寄せられるように何かの言葉が湧き上がってくる。
そして、予期せぬ言葉、意味との再会は私にとって「即興的な遊びの感覚」を伴っていて、そこには再会による「懐かしさ」と「喜び」がある。
そう思うと、「喜び」というのは外から与えられるものではなくて、自分の中にある何かと再会、再発見したりする中で見出される「新鮮な懐かしさ」こそが喜びの源泉なのではないだろうか。
最近「懐かしい」と感じたこと、何かあるだろうか。
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