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利他があらわれている事象を見つけるということ

今日は書籍「「利他」とは何か」第三章「美と奉仕と利他」より「美という利他」を読みました。今日も昨日に引き続き、民藝運動を起こした柳宗悦(やなぎ むねよし)さんについてです。一部を引用してみます。

彼にとって「民藝」とは、美しいものを眺めるだけの行為ではなく、「見る」という行為を通じた哲学的営為であり、個々の心のなかに内なる平和を実現しようとする試みでした。柳は、「美」こそ真の意味で「利他」なるはたらきを蔵したものであると考えたのです。ただ、柳自身が「利他」という言葉を直接使うことは、ほとんどありません。おそらく彼は、利他という言葉では、利他の本質を表現し得ないと感じていたのでしょう。
言葉には避けがたい宿命があります。ある物事を語ることによって照らし出すとともに、語り得る領域に限定するということが同時に起こる。ある対象を明示すると同時に、そのものの本質から人を遠ざけ、理解を阻害してしまう側面がある。柳はこのことをとてもよく理解していました。
のちにふれますが、柳の哲学の仕事には、沈黙のはたらきをめぐって思索を深めた軌跡を数多く見ることができます。彼は、利他という言葉を使わず、利他の本質が顕現している事象をめぐって思索を深め、言葉をつむいだのです。別ないい方をすれば、言葉だけでなく、沈黙のはたらきをともに用いることによってしか、真の意味での利他なるものにはふれ得ないことを直観的に熟知していた。そうした存在の意義を柳は「民藝」が顕わす美にまざまざと感じていたのです。

「彼は、利他という言葉を使わず、利他の本質が顕現している事象をめぐって思索を深め、言葉をつむいだのです。」

著者のこの言葉が胸に残りました。

「利他とは何か?」という問いに思いをめぐらせるとき、心のどこかで「利他・利己」という言葉を使いたくない、口にしたくないと感じていました。

だからこそ、柳さんによる「利他の本質が顕現している事象をめぐって思索を深める」というアプローチに惹かれたのかもしれません。

たしかに「言葉」は概念を定義・操作したり、対象を特定する、感情を表現するなど、なくてはならないものです。言語もいわゆる日本語や英語など、自然言語と呼ばれるものから、数字、造形言語など、じつに様々なものがあります。

言葉で対象を特定するということは「その対象とそれ以外の間に線を引く」こと、輪郭をはっきりさせてゆくことでもあると思います。その反面、視点や意識が固定化して、対象から離れることが難しくなる、囚われてしまうということもある気がします。

「言葉だけでなく、沈黙のはたらきをともに用いることによってしか、真の意味での利他なるものにはふれ得ない」のか、美こそ真の意味で「利他」なるはたらきを蔵したものであるのか。私にはまだわかりません。

だからこそ、私も柳さんのように、まずは身近な「事象」を拾いあつめて、観察・思索してみようと思います。

「利他の本質が顕現している事象とは何だろう?」

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