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万物の流れとダイナミクス〜ヨガと音楽の重なり合いを通じて〜

「ヨガと音楽は重なっている。つなぐものは"ダイナミクス"(Dynamics)」

今日もいつものようにヨガに取り組んでいると、それはそれは青天の霹靂のように、突如としてこの言葉が降りてきて自分の心の内側が晴れ渡ってゆくような感覚を覚えました。今日のこの感動を未来の自分に託すような気持ちで徒然なるままに綴ってみようと思います。

ヨガは身体を動かして様々なポーズを取ります。両足で身体を支えるように身体の対称性を保つ形もあれば、片足立ちでバランスをとるように非対称な形を取るポーズもあります。ここでいう「形」とは少し静的というか、止まっている時の状態を連想しています。

一方、それらのポーズには時間的な対称性、すなわち動作の始まり(入口)からピークに向かい、ピークを一定時間保った上で元の状態に向かって逆の道筋を辿りながら閉じてゆく(出口)という一連の流れがあります。


ヨガと音楽はダイナミクス(時間的変化)で重なり合う

「ポーズを始めて限界のところまで来たら、あと1mmでもその限界を超えたところでキープする。戻る時は逆再生で来た道を戻るように」

インストラクターの方からのダイアログは、ポーズのピークを過ぎたらそこで意識を途切れさせるのではなく、元の場所に戻る時にも等しく意識を向けて心身の緊張と弛緩の調和を継続することの大切さを伝えて下さっている。

私は趣味でサックスを演奏するのですが、このポーズを逆に戻ってゆく時、閉じてゆく時の緊張感、エネルギーの使い方が楽器演奏でいう「弱音」と重なったのです。

弱音と書くと、どことなくエネルギーが小さい印象を受けますが、楽器演奏における弱音は、身体の外側も内側もしっかりと支えながら強音と等しく、エネルギーを使います。管楽器で言えば「呼吸をたっぷり使う」必要があります。

「百聞は一見に如かず」と言いますが、そのまた逆も然りで「一聞は百見に如かず」ということで、この言葉の意味が伝わると思う演奏の動画を最後に載せておきます。先日演奏したグスタフ=マーラー作曲の「交響曲第5番」の第四楽章(アダージェット)、指揮は先日惜しくもこの世を去られた小澤征爾さんです。

この演奏の最後の弱音、いや…「儚く消え入るような静けさ」に耳を傾けると、そこには「静けさの内実に満ちている」のです。視ること、聴くことは別個に存在するのではなく等価であり「察する・感じる」ことにより統合・包摂されてゆきます。

そう思うと、ヨガのポーズを始めて、ピークを迎えてから最初に戻ってゆく過程というのは音楽と等価であると感じ始めます。そこには時間的な変化(ダイナミクス)という"音楽"が存在している。楽器がなくとも身体表現を通して音楽を奏でることはできる。そして、万物は時間的に変化しているとするならば、森羅万象に音楽が存在している。そんなことを思うわけです。

「豊かさ」とは多くを持っている、知っていることではなく、ヨガと音楽がつながりを見出したように、何かと何かの間に「生きたつながりを見出す」ことのできる、開かれた心のあり方、状態にあるのではないかと感じます。

そして、その「生きたつながり」というのは「動き」や「流れ」を通じて、見出されるものなのではないかと思うのです。さほど身体を動かさなくとも日常の生活が完結してしまう世の中だからこそ「身体の動き」そして身体の動きに下支えられた「心の動き・自由」が希少になっているのではないでしょうか。

今日の内省・言葉は、私にとって心の種であり、始まりです。身体、音楽、言葉、表現、生命、自然、呼吸。すべてをつなぐのは「流れ」であり、この流れを中心軸として、この種を見守り、育ててゆきます。


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