視覚と触覚は分かれていない?

今日は『触楽入門 -はじめて世界に触れるときのように-』(著:テクタイル)から「目で見ることで絵画に「触れて」みよう」を読みました。

昨日は「物を拡大して見ながら触れると触覚の感度が上がる」という話にふれました。物の表面は肉眼では確認できない極微の世界でもあります。その世界がどのような表情をしているのか観察できなければ意識することはなく想像で補うほかありません。

物を拡大してゆくと極微の世界がありありと浮かび上がってくるわけですが、解像度が上がった状態であらためて物に触れると解像度高く現れた物の表面を触っていることが想起されて感度が高まるようです。

さて、今回読んだ範囲では「視覚と触覚は未分化である(切り離せない)」というテーマが展開されていました。

著者は「見た目から触感を想起する能力」について次のように述べます。

 私たちは、自然と見た目から触感を想起していますが、あらためて考えてみると、これはなかなかすごい能力なのではないでしょうか。この能力は、私たちが絵画を眺めるときに、大いに活用されています。絵画では、油絵の具、水彩絵の具、パステル、墨といった、絵を描くときの素材の違いが触感の違いを生んでいます。そのため、実物を見るのと、その写真複製を見るのとでは、まったく違った体験になるのです。

たしかに写真と絵画では同じ物や情景を表現しても、見た目の質感が異なります。この見た目の質感というのは「ふんわり」「ザラザラ」など「もし触れたらきっとこんな手触りだろう」という想像の触感とも言えるかもしれません。

 このように、美術批評においても、絵画を見るときには「触覚的なもの」が入り込んでいます。視覚の体験と触覚の体験とは、深く結びついていてきれいに分けることができません。美術館に行くことがあれば、気に入った絵をじっくり眺め、そこにある触覚性を探してください。見慣れていると思っていた絵であっても、作者の手つきや身体の動きまで感じ取れるかもしれません。視覚を介して立ち上がる未分化の感覚世界を味わってみましょう。

 この著者の言葉は私の実体験と重なりますが、物を見ているとき、触れていないのにあたかも物に触れているように感じることがあります。例えば、金属の手すりを見ているとき、手すりに触れているわけではないのに、手のひらがどことなくソワソワすることがあります。

金属の手すりに手のひらで触れたときの、ザラザラとサラサラの間のような触感。

「視覚を介して立ち上がる未分化の感覚世界を味わってみましょう」

自分の感覚世界を著者が代弁してくれたような気持ちになりました。

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