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日常生活に偶然性を取り入れ、自分の枠を超えてゆく。

今日もまたヨガを通して感じたことを綴ります。

自分の身体は日々変わり続けていて、だからこそ毎回何かしら新しい発見や気付きがあるので、いつも新鮮な気持ちで飽きることがありません。

私が通っているヨガのレッスンでは、いつも決まった順番で決まったポーズを取っていきます。シークエンス(進み方)が固定的であるがゆえに、それをモノサシとして自分の変化に気付いてゆけることは、ルーティンの楽しみだと感じています。

反面、固定的なシークエンスは次の動作を予測可能にするとともに、過去の体験の蓄積により、自分をある種の枠にはめてしまう、あるいは無意識的に限界を作ってしまうことがあります。もう少しチャレンジできるはずが、意識的に動きを抑えてしまう結果として、自分自身の変化を感じにくくなってしまうのです。

不思議な表現ですが、毎回毎回のチャレンジは意識的に行っているはずが、積み重ねによる制約(自己暗示?)は無意識的です。

そうした無意識的な制約、思い込みが外れるきっかけはいくつかあり、自分自身、他者による導き、そして「ゆらぎ」の三つです。

自分の身体の状態は日々変化しているわけですが、稀に「今日はいつもよりもしなやか」と感じる時があります。どのような動きを取っても、いままでの自分が「このぐらいはできるだろう」と思っている限界値を軽々と超えてゆくことができる。完全にはコントロールできない「自分自身」と偶然性によって制約が外れることがあります。

次に、他者による導き。毎回ではありませんが、身体を動かしている時に「少しだけ、こちらに目線を移して」といったように、インストラクターの方がジェスチャーをして下さいます。たとえば、全身をねじるようなポーズでは、固定されていた自分の視線が動いてゆくと、動きに連動して自然と身体のねじりが深まってゆくことがあります。

最後に「ゆらぎ」です。たとえば、片足立ちでバランスを取るようなポーズのとき。支えが弱いと全身がぐらついてしまいます。わずかな「ゆらぎ」であっても、全身が協調して元の位置に戻ろうとします。これも偶然性によるところが大きいのですが、全身の「瞬間的な協調」は今までに経験したことのない組み合わせである場合があり、頭が一瞬「空っぽ」になるというのか、爽やかな風が吹いて一気に霧が晴れるような感覚が立ち現れます。

これはあとで引用するように、哲学者のルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインが言うところの「俯瞰の感じ」を直感しているのだと思うのです。言葉によって論理を積み上げてゆくのではなく、「ああ、そういうことか…」と全体を一気に見通すような感覚です。

自分自身、他者による導き、ゆらぎ。それらに通底しているのは「偶然性」ではないでしょうか。日常生活の中で「偶然性」を取り入れることは、自分の枠を超えてゆく機会を増やすことに他ならないと思うのです。

「なるほど、わかった」と声に出して言うほどの理解が起きるとき、わたしたちはなんだか見晴らしのいい小高い丘に立ったような気分を覚える。この気分はわたしたちの理解を現実的に表現している。というのも、わかったと確信が持てたとき、これまでのいくつもの曖昧な点がつながって意味と役割を持って生まれ変わり、そのために問題の構造の全体が見渡せた感触を得るからなのだ。つまり、この俯瞰の感じがわたしたちに風景の俯瞰と同じ気分を与えてくれるのだ。

白取春彦『ヴィトゲンシュタイン 世界が変わる言葉』

くり返し起こったことや事例に共通する点を見つけ、そこに一般的なものを見つけ出すのが帰納法だ。たとえば、これまで見てきた猫はみんなネズミをつかまえたから、どんな猫でも必ずネズミをつかまえるものだという一般的結論を出すことだ。しかし、こういう帰納法はちっとも論理的ではないし、確度も高くはない。なぜなら、これまでにくり返し起こったことが明日もまたくり返されるとは決まっていないからだ。そして何をどれと結びつけて共通点とするかというのは、人の経験と心理によるものにすぎない。こうして人は帰納法に頼るばかりに、新しい事態に対処できなくなったり、安心しながら以前と同じ手法を用いて商売に失敗したりするのだ。

白取春彦『ヴィトゲンシュタイン 世界が変わる言葉』

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