「表現しようとしない」ということ
今日は書籍「「利他」とは何か」第三章「美と奉仕と利他」より「利他は行うのではなく、生まれる」を読みました。一部を引用してみます
人は、美を作ることはできないのではないか。作ろうとすればするほど、柳の言葉を借りれば、それは工藝ではなく美藝になっていくのではないか。そこに何かしらの歪みが出てくるのではないか。そう濱田は考えていました。「生れてくる」というのは、人間が何か自分とは違う働きの「通路になる」ということにほかなりません。
先の短い文章も、民藝、さらには利他の本質をよく表しています。利他という出来事のさまたげになっているのは作意だというのです。利他とは、人間が「行う」ものではなく、何かの通路となった結果として「生れて」くるものである、ともいえる。
自分の「考え」から出たのではなく、「手が学んでいたさばきに委した」、だからこそそこに「美」が宿ったというのです。これまでの話で、柳が考える利他の淵源が「美」であることはすでに見ました。そうした認識は濱田も同じです。「美」は彼らにとって何かを「生む」ちからそのものです。詩人にとって言葉が記号以上のちからの顕現であるのと同じです。
文章に登場する「濱田」とは、民藝運動を起こした柳宗悦の盟友、陶芸家・濱田庄司のことです。
「自分の考えから出たのではなく、手が学んでいたさばきに委した、だからこそそこに美が宿る」
柳宗悦、濱田庄司の二人は、美に対する深い精神性を共有していたのだなと感じました。
では、利他を妨げる「作意」とは何でしょうか?
その問いを受けて思い浮かぶのは「演奏」についてです。
私は趣味として、サクソフォンでクラシック音楽を練習しているのですが、「どうもしっくりこない」という瞬間に何度も何度も直面しています。
その「しっくりこない」にも、いくつかのパターンがあります。
他の誰かの演奏に自分を重ね合わせ、「その人のように演奏しよう」としてしまう。他の誰かに囚われてしまうパターン
あるいは、自分の技術の至らなさや、音楽の解釈が上手くできないなどで、自分に嫌気が指して、気持ちが音楽から離れてしまう。自分自身に囚われてしまうパターン。
いずれにも共通するのは「その音楽はどのように流れているのか?」という問いに自分が向き合えていないことです。音楽は様々な解釈ができますが、少なくとも「自分の好きなように演奏すればいい」というものではないと感じます。
表現が難しいのですが「音楽の自然な流れを、流れるままにする」あるいは「表現しようとしない」と言えるかもしれません。「作意的ではない」とはそのようなことではないか、と。
純粋に響く音で素直に奏でられた音楽には、奏者の存在を感じることなく、曲それ自身が自分の中を自然に流れていくような、そんな感覚があります。
「〜しようとする」という意思を削ぎ落としていった先に、出来事としての「利他」が生まれるのかもしれません。枯れた木々にも、瑞々しさや豊かさが感じられるように。
「余分なものは何だろう?削ぎ落とすべきものは何だろう?」
この問いを大事にしたいと思います。
最後に私がとても心惹かれる「雲井雅人サックス四重奏団」の演奏を。私が思う「純粋に響く音で素直に奏でられた音楽」です。どこまでも透明です。
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