「あなたは人に迷惑をかけて生きているのだから、人のことも許してあげなさい」というインドの教えと「反脆さ」
今日は『反脆弱性』(著:ナシーム・ニコラス・タレブ)から「ボトムアップ型の変化」を読みました。
人はランダム性、不確実性を避ける傾向にありますが、一定のランダム性を取り入れると、適度なストレスにさらされ、返って強くなってゆく。それが反脆さ(antifragile)。
不確実性を避けるということは、つまり将来を予測し、予定調和的な未来が訪れると信じる態度でもあります。一方、システムには要素間同士が複雑につながりあうことで、原因と結果を明確に切り分けることのできない「因果の不確定性」が存在するため、そもそも何かを予測する前提とされる「原因から結果を導く」というモデルによって「正確に」将来を予測することは、原理的に不可能です。
予測どおりの将来が訪れないことは理解しながらも、予測が外れた場合に備える。それは「ストレスにさらされてもシステムが崩壊しない」という意味での耐性(=頑健さ)を高めることですが、それは「反脆くなる」ことを意味しません。
そして、「因果の不確定性」と並んで重要となる概念が「非線形性」です。非線形とは、何かの影響がシステムの内部で増幅され、変化が加速度的に増幅されていくことです。文字通り、変化が直線的ではないため「過去の延長線上で未来を描く」ことができません。
「規模が増すと、まったく違う力学が働く」というのは、誰もが実感するところではないでしょうか。「人のつながり」を考えてみても、友人や家族とのつながり、コミュニティとのつながり、国民としてのつながり。
規模が大きくなれば互いの顔が見えなくなり、「つながっている」実感は多少なりとも薄れてゆくのではないでしょうか。
「規模が大きくなると、他者は抽象的なモノでしかなくなる」
人の存在が数値やデータに還元され、統計上の存在になってゆく。数が多くなると、人はどこかで付き合い方を「割り切る」方へと向かわざるを得ないのでしょうか。数やデータの向こう側にいる「具体的な」人の存在に意識を向けるにはどうすれば良いのでしょうか。
そのような問いが浮かんできいました。
「小さなものは色々な点で美しい」
この言葉から思い出したのは、F・アーンスト・シューマッハによる書籍『スモール イズ ビューティフル - 人間中心の経済学 - 』です。
小さなものに(小さな単位の集合体)という補足書きがされている点に目を向けてみます。「群れ」という言葉が浮かんできたのですが、「部分が脆いことで全体が反脆くなる」という性質と合わせると、適度につながりあった「群れ」は反脆いということかもしれません。
日常の隅々にまでデジタル技術が浸透し、日々膨大なデータが生み出され、そこには人に関するデータも含まれる中、「人間性を無視したデジタル・テクノロジー中心のシステムは脆いのか?反脆いのか?」という問いについて考えてみたくなりました。デジタル・テクノロジーが小さな「群れ」の性質をどのように変えるのか、という点とあわせて。
「人間は具体的でないものを軽んじる」
いまやインターネットで検索すれば、デジタル化された多くの情報が瞬時に手に入るようになりました。食事中や移動中など、スマートフォンを肌身離さず持ち歩き眺めてしまう生活のように、デジタルに過剰に依存せず、目の前の出来事に意識を向けるようでありたいものです。
話が横道にそれてしまいましたが、すぐに調べたり、アクセスしたりし、「すべてを分かった気になって」ストレスを感じずに過ごし続けていると、じつは「脆くなる」のではないか。
時には、少し面倒だなとストレスに感じることもあるかもしれないけれど、「顔を合わせて人と付き合う」こと。ストレス過剰になってしまったならば頑張りすぎないこと(部分は脆いほうがよい)。
インドでは「あなたは人に迷惑をかけて生きているのだから、人のことも許してあげなさい」と子供に教えるそうですが、社会を反脆くする基盤となっているような気がしました。
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