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利他という「人それぞれの真実」

今日は書籍「利他とは何か」第三章「美と奉仕と利他」より「手仕事と利他の一回性」を読みました。一部を引用してみます。

利他は、手仕事のようなものです。それはいつも、けっして繰り返すことができない、ただ一度きりの出来事として生起します。いわゆる科学は、反復することによってそれが真理であることを認めていこうとします。
科学的な真理はいつも他者による証明を必要とします。しかし、利他の真実はそのような道程で確かめることはできません。科学が証明する真理とは全く異なる真実の認識のようなものが一回性の中には宿っている。
いま「真理」と「真実」という言葉をあえて使い分けましたが、利他という出来事は、真理的にではなく、個々人の生の真実として経験される。あることを他者に行う。ある人はそこに大きな喜びを感じるかもしれませんが、別な人はそこに憤りを覚えるかもしれない。真実は必ずしも一様ではないのです。
これまで幾度も「物」という言葉を用いてきました。「物」という言葉は、単に物質を示すだけではありません。「物になる」という表現が端的に表しているように、それは潜在的可能性が十全に開花した状態も意味します。ですから、私たちは世にただ一つのものを「本物」と呼ぶのです。

「物になるという言葉は単に物質を表すのではなく、潜在的可能性が十全に開花した状態も意味する」

この言葉にハッとしました。

日常生活の中で「物になる」「物にする」という言葉を使っているわけですが、それは「完成する・成就する」あるいは「理解する・習得する」を意味して使っています。

それらを一言で表すとすれば「心得る(心を得る)」ではないでしょうか。

だから思ったんです。「物にする」というのは「(自分を)物(と同一)にする」ということなのではないか、と。「物」を自分側に引き寄せるのではなくて、自分と物が互いに歩み寄っていくイメージです。

物はそれぞれに個性があって、個性をどのように引き出すかは人それぞれ。たとえば、私が練習しているサクソフォンという楽器にも、色々な個性があります。サイズ、素材、キーアクション、吹奏感、結果としての音の響き。

絶対的に響くセッティング(パーツの組み合わせ)は存在しません。楽器に接続している人の身体もまた固有だからです。楽器の固有性と身体の固有性が共鳴して固有の音の響きが生まれています。そこに一回性を感じます。

個人個人が「こうありたい」という音の響きのイメージを持ちながら、そのイメージに近づくために楽器の可能性を最大限に引き出そうと、セッティングを模索し続けています。まるで終わりのない旅のようです。

だからこそ「これだ!」という楽器に巡りあえたり、楽器のセッティングが見つかると「迷いが晴れる」というか、その瞬間に感謝したくなります。

それは著者の言葉にある「潜在的可能性が十全に開花する」瞬間とも言えるかもしれませんし「物に個性が見い出され、それが引き出される瞬間」とも言えるかもしれません。

自然と湧き上がる感謝を、「あわい(間)」に生じる「利他」という現象と捉えるならば、決して普遍的な真理ではなく「人それぞれにとっての真実」なのかもしれない。そう思えてくるのです。

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