自然界は成長・発展をいつどこで止めるかを心得ている

E・F・シューマッハ(イギリスの経済学者)による書籍『スモール・イズ・ビューティフル - 人間中心の経済学』の「第二部 資源」より「第五章 人間の顔をもった技術」を読み始めました。

今日は「技術と成長」について。一部を引用してみます。

奇妙なことではあるが、技術というものは、人間が作ったものなのに、独自の法則と原理で発展していく。そして、この法則と原理が人間を含む生物界の原理、法則と非常に違うのである。一般的にいえば、自然界は成長・発展をいつどこで止めるかを心得ているといえる。成長は神秘に満ちているが、それ以上に神秘的なのは、成長がおのずと止まることである。
自然界のすべてのものには、大きさ、早さ、力に限度がある。だから、人間もその一部である自然界には、均衡、調節、浄化の力が働いているのである。技術にはこれがない。というよりは、技術と専門家に支配された人間にはその力がないというべきであろう。
技術というものは、大きさ、早さ、力を制御する原理を認めない。したがって、均衡、調節、浄化の力が働かないのである。自然界の微妙な体系の中に持ちこまれると、技術、とりわけ現代の巨大技術は異物として作用する。そして、今や拒絶反応が数多く現れている。

「自然界は成長・発展をいつどこで止めるかを心得ている」

特に印象的な言葉です。

自然には「成長や発展が緩やかになり停止に至るメカニズム」が組み込まれている、とも意味をとることができます。

いくつか例を挙げてみると、生物学者のルートヴィヒ・フォン・ベルタランフィが「魚の体重が時間経過と共にどのように推移するか(成長曲線)」を数式(ベルヌーイ型の微分方程式)で記述し、実際の観察結果によってその正しさが裏付けられています。

ポイントは「身体の表面積に比例して栄養を吸収する」という仮定を置いていることで、これにより「体重が頭打ちになる」という帰結が導かれます。(微分方程式に興味がある方は、最後に載せる授業動画がオススメです!)

あるいは、「人口論」で有名なマルサスが考えた「人口予測モデル」でも、資源の有限性等を考慮することで「人口はやがて頭打ちになる」という形で帰結します。

いずれにしても、自然界においては何かしらの「制約条件」によって、成長に歯止めがかかります。資源やエネルギーの制約、(身体のサイズなど)物理的な制約などです。

この言葉に対置されるのは「技術というものは、大きさ、早さ、力を制御する原理を認めない」という言葉です。

「技術が大きさ、早さ、力を制御する原理を認めない」とは、どういうことなのでしょうか?

たしかに技術は進化し続けており、その速度は加速し続けています。さらに異なる技術同士が結びついて新たな技術が生まれる、という多様化も進んでいます。あるいは自然科学における「新たな発見」が他分野でボトルネックとなっていたものを乗り越えるきっかけを与えます。

これは「知」と「知」が結びつくとも言えます。そこでの主語は「技術」ではなく「人間」のように思います。

「技術の成長が無限」というよりも人の飽くなき知的好奇心や「無限に成長し続けてほしい」という飽くなき期待(あるいは願望)が、技術成長の無限性を支えている。この「飽くなき」という言葉こそ、自然界の「有限性」に対立するように思います。

はたして自分の中の「飽くなき」と、どのように向き合えばよいのでしょうか。そのヒントは「足るを知る」という言葉にあるように思いました。


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