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器をとおして「人にゆだねる」という利他

今日は書籍「「利他」とは何か」第三章「美と奉仕と利他」より「器の心」を読みました。民藝運動を起こした柳宗悦(やなぎ むねよし)さんの思想について。一部を引用してみます。

されば地と隔る器はなく、人を離るる器はない。それも吾々に役立とうとてこの世に生れた品々である。それ故用途を離れては、器の生命は失せる。また用に堪え得ずば、その意味はないであろう。そこには忠順な現世への奉仕がある。奉仕の心なき器は、器と呼ばるべきではない。用途なき世界に、工藝の世界はない。(『工藝の道』)
ここで柳がいう「心」とは、人間の心である以上に「物」の心なのです。それは、すべての「物」には心がある、というアニミズムとは異なります。柳は「器」は、生物とは異なるありようではあっても、「いのち」あるものだと考えている。「いのち」が宿るとき、そこに奉仕の心もまた宿る。それは彼の思索の結果ではなく、打ち消しがたい経験なのです。
「物」が「奉仕」する。ここにはおのずと「忘己利他」が実現する。民藝の器には主張するべき「我」がないからです。そして、どのように用いられるかを、自分以外の存在、すなわち人にゆだねているからでもある。

「物が奉仕する」
「どのように用いるかを、自分以外の存在、すなわち人にゆだねている」

特に、この言葉が胸に残りました。

「奉仕」という言葉には、純粋な献身性、反面的な自己犠牲というイメージを抱いていたのですが、それは「人が奉仕する」という文脈を想像していたからで、「物が奉仕する」という文脈になると不思議とそのようなイメージが抜け落ちたように感じています。

柳さんは器に「いのち」が宿るとき、奉仕の心も宿ると考えられていたとのことですが、その考えに重なるように、ふと「企業は社会の公器である」という言葉が思い出されました。これは、故・松下幸之助さんの言葉です。

いのちが宿った器からは「実用」という美しさがにじみ出てくる。「美という利他」ですね。

現在エンジニアとして仕事をしていますが、システム開発、プログラミングにも通じる気がしました。実用を突き詰めて書かれたプログラムのコードはとても美しいです。プログラムも人の想いを受け止める「器」と言えるかもしれません。

「いのち」が宿っているというか、よどみなく流れるというか。「そのコードが何をするものなのか?」をコード自身が語りかけてくるような、それを書いた人以外の誰が読んでも自然と分かるような、そんなコードです。

プログラムのコードは一度書いて終わりということはなく、たえまなく書き換えられていきます。「そのコードが何をするものなのか?」が分からないと「書き換えた時にバグが生じるかもしれない」という不安が生まれて結局書き換えることができないという側面があります。

「そのコードが何をするものなのか?」が自然と伝わってくるようなコードを書いた人の「こだわり」は「我」を離れて、読み手にコードのその後を委ねているのかもしれません。

器をとおして「人にゆだねる」という利他の考え方にふれ、私のなかにある「利他」の枠が広がる感覚があります。

あそび、余白、自由を残す。簡素にする。完全性を求めない。

そのような言葉が浮かんできました。

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