つくる、学ぶ、変化する
"What I cannot create, I do not understand."
この言葉は、1965年にノーベル物理学賞を受賞した物理学者のリチャード・ファインマンが1988年にこの世を去った時に黒板に書き残されていたものと言われています。
直訳すると「私が自分で作れないものは、私が(本当の意味で)理解していないものだ」となりますが、対偶を取ると「私が(本当の意味で)理解しているならば、私にはそれが作れるはずだ」となるでしょうか。
この言葉はもっともらしいと思える一方、「本当にそうなのだろうか?」という気持ちもあります。この気持ちがどこから生まれるのかを考えてみると「完全性」という点に行き着くように思います。
これは括弧書きで補足した(本当の意味で)について、「本当の意味で」とは一体どういうことなのだろうか、という問いとしても捉えることができるかもしれません。
というのも、日々新しい発見が生まれ続けている「人工知能」は、まさにこの問いを体現しているものだからです。ファインマンが残した言葉は「原理」や「法則」が先にあり、それらが(その時点において)完全なものであるならば、具体化する(作る)ことができるはずだ、という主張だと思います。
一方、人工知能の場合は、先に具体がやってきています。ある構造を作ってみて、データを入れてみたら「なぜだか分からないけれど」著しく良い性能が確認されたので、「なぜそうなるのか?」という原理を後から理論と実証を重ねながら発見していく流れがあります。
そこには「作ってから学ぶ」と「学んでから作る」が共存していて、その間には「学びながら作る」が位置しています。そこには初めから「完全性」は存在せず、永遠に続く変化がある。
だから、完璧さを求めすぎずに、まずは動いてみる。物を作るでもいいし、何かを書いてみるでも、身体を動かしてみるでも、本を手に取ってみるでも、何でもよくて。「自分を形づくる」ということが、「つくる」の外側に広がっているのではないでしょうか。
「作る」という営みを挟んで「作る前」と「作った後」が分かれるならば、それは「何かが変化している」ということ。「学ぶとは変化すること」と捉えれば、いつでもどこでも何からでも学ぶことができるし、何かを学ぶのに遅すぎることはないと思うのです。
高木正勝さん(映像作家・演奏家)のエッセイ集『こといづ』で、「作る」ことと「学ぶ」ことを語っているのが胸に響いたので、感じるままに綴ってみました。