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感性を耕すということ

今朝は日本を代表するデザイナーの一人である原研哉さんの書籍『デザインのデザイン』という本から「日本という畑の土壌を耕す」という一節を読みました。日々の暮らしを考える上で、貴重な言葉が散りばめられていましたので、一部を引用してみたいと思います。

「マーケティングを行う上で市場は畑である。この畑が宝物だと僕は思う。畑の土壌を調べ、生育しやすい品種を改良して植えるのではなく、素晴らしい収穫物を得られる畑になるように土壌を肥していくことがマーケティングのもうひとつの方法であろう。欲望のエデュケーションとはそういうことである。」
「優れた土壌から優れた作物を収穫するように、潤いのある感受性に満ちたマーケットからは潤いのあるデータが収穫されるはずである。幸か不幸か、日本の一億三〇〇〇万人のマーケットは、グローバリズムとの攻防においては日本語という防波堤で守られている。英語の不得意さが幸にして、日本市場は不思議なクオリティを維持している。この独自な市場における欲望の質を肥やしていくことが、収穫物の品質を向上させ、グローバルなステージでの日本の競争力を引き上げていくことにつながるはずだ。デザインという営みは長い目で見て、そういう局面で働けるだろうと考えるのである。」

市場を畑に例える表現がとても印象的でしたので、それぞれの言葉を自分の中で反芻、再解釈しながら、思い浮かんだことを綴りたいと思います。

畑を耕すように感性を耕す

何かを買うとき、使うとき、選ぶとき。その決め手は何だろうか、と考えてみます。自分の好みに合っているから?世間の評判がいいから?使いやすそうだから?その時の気分で?値段が安いから?なんとなくそこにあるから?

そもそも「耕す」とはどういうことなのでしょうか。広辞苑を引いてみると以下のように定義されています。

農作物を作るために田畑を掘り返す。打ち返す。
「鍬くわで田畑を━」「牛を使って土地を━」「荒れ地を━」「心を━(=自己を開発する)」

「掘り返す」という言葉は「かき混ぜる、底から引き出す、入れ替える」のように捉えることもできると思います。土壌を柔らかくしたり、有機物の分解促進などを期待して畑を耕すわけです。

「マーケティングを行う上で市場は畑である」との原さんの言葉は、畑の土に見立てられた「私達の価値観や嗜好性」の上で、様々な物やサービスが根付き、結実してゆくことを表しているように思いました。

また「畑の土壌を調べ、生育しやすい品種を改良して植える」という言葉は「ニーズを満たす」との表現にも通じており、それらニーズ(欲求)の裏側の「価値観や嗜好性」は所与のもの、固定的に捉えているように感じます。

対して、「素晴らしい収穫物を得られる畑になるように土壌を肥していく」とは、現状に対して問いを投げかけて「価値観や嗜好性を根底から揺さぶること」を意味しているように思います。

問いとしては、たとえば「豊かな暮らしとはどのようなものだろうか?」「私達の生活は本当にこのままでいいのだろうか?」などでしょうか。

過去の延長線上にある慣性が働いた欲望を刺激するのではなく、「私たちは何を望むべきなのか?」を再度考え直すこと。「欲望のエデュケーション」とは、そのような意味なのではないかと思いました。

どのような方向へ向かって私達の欲望をエデュケートしていくのか。価値観や嗜好性をどのように耕していくのか。それは、日々の暮らしのデザインであり、未来に残すに値する社会のデザインに他ならないように思います。

「キレイは作れるけれど、美は作れない」

「未来に残すに値する社会とは、どのようなものだろうか?」というのは、とても大きな問いです。

欲望のエデュケーションという言葉を受けて、私が思うのは、一人ひとりが何かを選択する時に「それは美しいだろうか?」という問いを起点として選択する社会というのは未来に残すに値するのではないか、ということです。

「キレイは作れるけれど、美は作れない」

これは友人のデザイナーの一言なのですが「見た目がキレイ」ということ、ではなく、根底ある思想や精神性の美しさは自然とにじみ出るものであり、簡単には模倣できないということを表しています。

自分の生活に融け込んでいるデザインが「美しいかどうか」を少し時間をとって考えてみたり、「これは何が面白いんだろう?」「これは何を伝えたいのだろう?」と疑問に感じるデザインに目を留めることから、はじめてみようと思うのでした。

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