批評について

批評がしにくい、されにくい時代だと思う。個人のやりたいことが尊重され、それを認めてあげること。それが社会の風潮としてある。
実態はどうなのかわからないが、少なくとも世の中の流れとすると、各々を認め合う優しい空気が広がりつつある気がする。僕が主宰を務める劇団でも、優しさは劇団のモットーとして掲げている。なので、この優しさというのは、どんどん広まってほしいと思うのだが、これがイコール批評をしない、されないとは、結びつかない気がするのだ。

定義を成さない批評と、きちんとした批評とを区別して、きちんとした批評は聞いていかなくてはならないと僕は考える。きちんとした批評とは何かを考える前に、背景を考えてみたい。
恐らく、批評がしにくい世の中になった背景には、ネットがあると思う。口コミという実際に使った、見た、聞いた、食べた体験からそのモノを判別しようと考えるのは、理に適った人間の知恵で、誰もが批評家になった。アイドルを投票したり、芸術作品を批評したり。そしてその形が広がると、どこの誰だかわからない人の言葉を鵜呑みにして、考えることなく自分の考えとしてしまう。そうなると、考える力もなくなり、"迷ったらネット"という楽な道が、縦横無尽に広がる世の中になった。
どこの誰だかわからない人の批評を、私たちは恐れるようになった。

そもそも批評とは、一つの作品に対して、こんな意見もありますよと、作品自体や、その作家の作る力の向上を目指して行なわれるものだと思っている。決して作家の人格否定ではない。そう考えると、きちんとした批評というのは、そういう考えもあるのか。ならばそれも踏まえて次も頑張ろうという、潰しではなく、伸ばしなのだということだと思う。
僕は、芸人をやっていた時は、だいぶ批評された。確かに心が折れることはたくさんあったのだが、いやだからこそ、厳しい世界なのだと知ることができた。笑いの世界で大事なのは、笑えるかどうかだ。笑えないものは、笑いではないのだ。その必ずクリアしなくてはならないものを、毎回クリアする難しさから、退いてしまった。

僕は今、演劇をしている。その中で、批評をたくさんもらう。批評の中で、これは聞いた方がいい。とか、真に受けなくていいと取捨選択はしたほうがいいと思った。それは、

○論理的であるか
○感情的でないか
○個人的な好みが大きくないか
○人の評価ではなく、作品の評価であるか

これらについての細かい説明は後日したいと思う。
良い批評を受けて、良い作品を作っていきたいと思っているし、こちらも、良い批評をしていきたいと思っている。根底には、相手を認める優しさを持ちながらである。

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