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キャリア支援への葛藤と手放したくないものに気付いた話

「私じゃなくてもっと向いてる人がキャリア支援した方がいいんじゃないでしょうか?」
「というかそもそも私、本当にキャリア支援をやりたかったんでしょうか?」

そんな言葉をとある日のキャリアコーチングの面談で発してた。 

まさかそんな言葉が自分から出てくるとは思ってかったからびっくりした。言ったのは自分なのに。でもきっとそれくらい何もかも信じられなくなっていたんだと思う。


コーチング、キャリアカウンセリング、コンサルティングなど様々なスキルを複合したキャリア支援を学ぶ講座を受講し始めてから4ヶ月経った。

今までは受ける側だったキャリア支援。とにかく練習しまくって試験を受けて、受けた後もまだ練習はやめないで、何者かになるべく転職活動までしようとした。

変化の量とそのスピードにしがみつくのに必死すぎたことで自分のことが振り返れていなかったように思う(正確には振り返りはしていたけど、したつもりになってたなー)

そんな日々の中で出てきたきれいじゃない感情も成長記録として残しておきたくて、このnoteを書くことにした。


キラキラキャリアとは程遠い私の経歴。大卒でも人材業界の経験があるわけでもない。輝かしい実績もない。キャリアコンサルティングとかコーチングという概念だって1年前は知らなかった。

そんな傍から見たら「ないものだらけの自分」が踏み入れていい領域なのか???みたいな自己否定的な声が学び始めた当初からずっとこびりついていた。

でも学びを進めるうちに人生まるごと支援していくことに魅了されていって、「今まで人生に悩んできたからこそできることがあるんじゃないか」と自分を鼓舞した。だんだん自己否定的な声も小さくなっていった。

良いか悪いかは置いといて、学びへのモチベーションの源は主に3つあったと思う↓

  • 過去の自分ように悩んだり、認知の歪みに苦しんだりしている人の支援ができるレベルまでスキルを向上させたい。

  • 今努力することで「あの挫折経験には意味があったんだ」と思えるようにする。(昇華&活用)

  • キャリア支援という概念を大切な「あの人」に届けたい。キャリア支援を当たり前のものとして世の中に普及させたい。(夢はでっかく!)

あとは単純に楽しかったというのもある。とにかく努力すれば「もっている人たち」と同じ土台に立てると信じてた。

しかし、今の私ではどれも叶えられないという現実に直面した。土台に立てなかった。「よし、だったらもっと頑張るぞ」と燃え上がった。後で気づいたけど、その現実を受け入れきれなくて、とっさに察しのいいふり、わかったふりをしたんだと思う。悲しみを悲しみとして受け入れるのを拒否したのかも。

その後、土台に立つために“それっぽい”キャリアプランを作り込んで転職活動に挑もうとした。そうしていくうちに頑張る理由が「世間に認められるため」一択になってしまった。自分のことも他人のことも何もかもわからなくなっていった。


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「私じゃなくてもっと向いてる人がキャリア支援した方がいいんじゃないか」

面談が終わった後もずっとその言葉が引っかかっていた。きっと本心じゃない。それでもやっぱりなんとなく諦めムードみたいなものは自分の中にあって、まったく本心じゃないとは言い切れなかった。

と同時に、なんか自分にとって大事な価値観や感情が眠っている気がして、その言葉から目を背けないようにしようと思って、居心地の悪さを感じながら生活していた。


それから数日経ったある日、私は家族の話を1時間以上聞いていた。テーマは職場の不満や愚痴。キャリア支援で学んだことを活かして質問したり、聞くことに努めたりしていたけど、次第にどんな言葉を掛けていいかわからなくなった。

キャリア支援者の立場で聞くべきなのか、家族の私として聞くべきなのか、第三者の視点として客観的に聞くべきなのか。 アドバイスをしていいものか、それとも、コーチングのような関わり方でアドバイスはせずに問いを投げかけるべきなのか。わからなくて、頭の中でぐるぐるぐるぐると巡ってしまってた。

ただ聞くだけなら誰でもできる。でも今目の前にいる人は苦しんでる。ただ聞くだけじゃダメだ。何かしたい。どうすればいい?

考えても考えても答えはでなくて、だったらもうその葛藤さえも全部伝えてしまえ、と思って伝えた。とにかく目の前の人のために何ができるかだけ考えて全力で向き合った。

すると、 本心がぽろっと出る瞬間があった。ピュアなその人が見えた。その瞬間、すごく抽象的だけど「あー、生きててよかったな…」と本気で思えた。すごく尊いな、と思った。


この「生きててよかった」に近い感覚を前にも味わったことがある。

私には、 疎遠になっていた大切な人がいる。去年数年ぶりに会うことが叶った。二人で温泉に入って、その時もずっと相手の話を聞き続けた。感情に共感して、一緒に追体験して、相手の幸せを心から願って、信じてそこに居続けた。(1時間以上は話してたから普通にのぼせた😂)

話し終わって外に出た時にはすっかり日が落ちていて、冷たい夜風が体に当たった瞬間視界がぶわっと開けた。

「あ、私はこのために生まれてきたのかもしれない」という言葉がすっと身体の中心に入ってきた。

何言ってんだこいつ…???って感じだけど、自分でも本当によくわからない感覚だった。


私は多分人の人生を聴くのが好きなんだと思う。
ただ出来事を聞くんじゃなくて、もっとその先の「その人がどんな価値観をもっていて、だからこそその出来事をどう捉えたのか」といった、もっと本質的な時間に立ち会えることが何よりも喜びなんだと思う。

そして、相手に120%の関心を向けて、全力を出し尽くす。信じてあり続ける。それが私の生きる意味なのかもしれないと思った。


「私じゃなくてもっと向いてる人がキャリア支援した方がいいんじゃないでしょうか?」
「ていうかそもそも私、本当にキャリア支援をやりたかったんでしょうか?」

に対するアンサーは、

「生きててよかった」「このために生まれてきたのかもしれない」そんな感覚を感じられる瞬間って、そんなにないんじゃないかな。キャリア支援は目の前の人に全力で向き合う仕事。「私は向いてない(かもしれない)から」という一時の感情で簡単に手放してしまっていいの?

になるのかなと思う。(質問に質問で返してしまった)


目の前の人に全力で向き合いたいなら、もしかしたら手法として必ずしもキャリア支援でなくてもいいのかもしれない。それがカウンセリングなのか、コーチングなのか、 また違うものなのか、それはわからない。

今自分の中にあるものを深めて、更にもっといろいろ学びたい気持ちがふつふつと湧いてきた。

それから、目の前の人の力になりたいならスキル向上と並行して自分を育てていく視点が大事だと改めて思った。自分のちっぽけさやコンプレックスにも目を背けない。このnoteを書いたことでまたいくつか課題が浮き彫りになったのでまずはそこに向き合おうと思う。(他人軸、他責、キャリア支援=転職支援という思い込み、しぶとい!)

自分の大事にしているものは握って離さないようにしながら、少しづつ、時に大胆に変化していきたい。


人の人生を全力で聴き、相手の価値観に触れる瞬間が喜び。たとえキラキラキャリアじゃなくても、他の人からないものだらけな存在に見えたとしても、それがあれば私は幸せ。

そんなやりがいというよりももっともっと奥深いようなものを手にしたような気がする。

これをどう扱うべきかはまだわからないけど、 この気持ちを抱えて、もっと物事を軽やかに考えて、 日々を丁寧に過ごしていく。

今日も自分のペースで前に進んでいきます。



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