自分にウソがつけないわたしの話【鈴木まゆってこんな人】
コーチ・イラストレーターの鈴木まゆです。
自分らしさを軸により良く生きたい人をサポートする、コーチングという仕事をしています。
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コーチングでは今悩んでいることや前に進めていきたいこと、ずっと行き詰まっていることなどを切り口に対話を深めていきますが、その中で、今まで誰にも話せなかったことがぽろっと出てくる時があります。
話したくないことを無理に話す必要はないと思っている一方で、コーチとしてはそれくらい大事なことでも話せるような、安心安全な場をつくりたいとも思っています。
これから出会う方に対してわたしができることはなんだろうと考えて、まずはわたし自身がどんな人生を生きてきたのかをありのまま語ることから始めてみようと思いました。
書きはじめたらたいへん長くなってしまったので(7,000字超え)、目次も活用いただきながら読んでいただけたらうれしいです!
■幼少期〜中学生
わたしとして生きていた
ライフストーリーを書くにあたって母にわたしがどんな子どもだったのか聞いてみたら、常に人にベクトルが向いている子だったらしい。常に誰かの後をついてまわってしゃべりまくっていたとのこと。
3歳年上の姉の習い事を真似してやりたがってはすぐに飽きてしまい、英会話スクールに縄跳びをしにいくような子だったけど(どんな状況?)、家族の中で誰もそれを責める人はおらず、あくまで「まゆはそういう子」という認識。
「お姉ちゃんなんだから我慢しなさい」と言われて育った母は、生まれた順番や役割など、自分の努力では変えられないことで評価判断されることに対して疑問を持っていたようだった。勉強など目の前の物事に集中できる姉と真似したがりで猪突猛進な妹のわたし。タイプの違う娘たちだったけど、なるべくその子自身を見るようにしてくれていたのかもしれない。
姉も姉で「お姉ちゃんって呼ばないで」と(当時幼稚園児だったのに)何の脈絡もなく言ってくるようなファンキーな人だったので、今もわたしは姉のことを呼び捨てで呼んでいる。
そんな環境の中で、昔は何かに縛られることなくわたしはわたしとして自由に生きていた。そして、純粋に目の前の人がどんな人でなにをしているのか、自分がなにを思っていて、それをどう表現したら知ってもらえるのか。そんなことにアンテナを立てながら日々を生きていたのかもしれない。
安定したい・手に職をつけたい
小学1年生の時に両親は離婚し、母と姉との3人の暮らしが始まった。仕事も家事も子育てもそのプレッシャーすらも全て1人で抱えていた母の苦労は計り知れない。
母はたびたび「ものやお金は盗まれても、才能や努力は盗めない」と言っていた(あくまで例えで、盗まれたことがあるわけではないけど)。将来娘二人の身にどんなことが降りかかったとしても生活に困らないように、今のうちから才能を伸ばして手に職をつけさせたいという願いがあった。
わたしはわたしで仕事から帰ってきた後何かを楽しむ暇もなくぐったりと倒れ込む母の姿を見ては母子家庭で生きていくことの大変さを子どもながらに感じていたので、「将来はバリバリ働いて一生食いっぱぐれないようになりたい!」とメラメラしていた。安定が絶対条件だったので、資格が必要な専門職に就こうと考えていた。
■高校生〜短大生
好きで生きる難しさを痛感
だからこそ、「安定してなさそうで好きなこと」を仕事にする選択肢は1mmも考えていなかった。物心ついた時から大好きだった絵も「その世界で食べていける人なんてほんの一握りだ」と思っていたので、部活で仲間とワイワイ描いたり、インターネット上に投稿したりと、あくまで趣味として楽しんでいた。
高校2年の秋、好きな漫画家が連載していたWeb漫画アプリで漫画コンテストを開催するという告知を見つけた。そこには”上位入賞者は表彰式に招待します”との記載があり、「大好きな漫画家さんに直接会えるかも!?」と(実際は会えないのに)盛大な勘違いをした。それまでちゃんと漫画を描いたこともなかったし、学校はテスト期間だったにも関わらず、1ヶ月で4話ほど描いて投稿した。
そんな熱意だけで描き上げた作品だったけれど、なぜか学生部門で入賞してしまった。そして、賞金10万円という大金を手にしてしまった。さらには漫画家デビューを目指すために担当編集がつくという特典つきだった。
「絵で食べていける人なんてほんの一握りだ」と思って現実を生きていた自分の目の前に、「好きなことが仕事になるかもしれない未来」が突然飛び込んできてしまった。
そんな未来、やすやすと手放せるはずがなかった。そこから勉強はそこそこ、部活は全力コミット、帰宅後に漫画を描く生活がはじまった。描いてはアプリに投稿し、いいねやコメント、ランキングをチェック。週刊連載に耐えられる筆の速さであることをアピールするために高頻度で投稿しなければならずかなり大変だったものの、好きでやっていることが人から求められていることが実感できて日々幸せだった。
そんな生活を1年以上続けたが、結果的にデビューできなかった。
それが突きつけられた瞬間、怒りや悲しみが湧いてきたのと同時に「もう辞めていいんだ」とホッとした。その頃には楽しかったはずのことが義務感に変わってしまっていた。
やっぱり好きで生きていくなんて無理だった。そうだ、私は安定を望んでいたじゃないか。もう絵なんて描きたくない。辞めよう。
そう思い、それまで続けていた漫画投稿をぱったりと辞めてしまった。
「あなたの絵には商業的な価値はありません」と烙印を押されたような感じがしたのだと思う。当時のわたしにはその挫折感に向き合いきれる力はなかった。
それからは絵を描こうとすると「こんな出来で世に出して恥ずかしくないのか」という自己批判的な声が聞こえてくるようになり、思うように描けなくなってしまった。(ここ最近までこの現象は続いていた)
人の成長にアンテナが立つ
高校の進路希望には保育士になりたいと書いて提出していた。ただ、正直なところ子どもが好きだから〜みたいな純粋な理由ではなく、それがベストだと思っていた故の選択だった。保育系資格は短大を卒業すれば取得できるので4年制大学にいくよりは家計に金銭的負担をかけなくて済みそうだと思ったし、看護師・栄養士など色んな専門職の中でも特に絵のスキルが活かせそうだと思っていた。
そんな中、学校行事の保育実習で0〜1歳児クラスに行った。0歳と聞いてベビーベッドで寝てるくらいの赤ちゃんを想像していたけど、実際は立って歩いていたし、そこそこ長い曲を先生のピアノに合わせて歌っていた。なのに指先はまだ発達途中で、プレゼントとして作って持っていった紙コップ製のマラカスが手で持てず、振って遊ぶのではなく潰して遊んでいた。
それを見た瞬間、雷に打たれたような衝撃が走った。今までに感じたことのない高揚感、とめどなく好奇心が湧き上がってくる感覚は、ただ単純に「知らないことが知れた喜び」では説明がつかなかった。(無理やり言葉にするなら「人間のはじまりを垣間見た」みたいな感覚かもしれない)
「なぜだかわからないけれど、とにかくそれがやりたい。他人が何と言おうとも、それがやりたい。」そんな感情を純粋意欲と言うらしいが、まさにそれだなと思う。
そんな思いに背中を押されて進学した短大で、わたしは人生で初めて勉強が楽しいと思えた。学べば学ぶほど、自分はどんな意図をもって子どもたちと関わっていくべきなのかを考えさせられた。人の成長に自分が関わることの影響力に対して真剣に考えるようになった。
■社会人
らしさを活かしたい!
新卒で幼稚園に入職し、年長19名の担任になった。
そこでは「たった5年、されど5年」という大きな気づきを得た。19人いれば19通りの考え方がある。みんながみんなオリジナルな存在で、それは大人からしたら「たった5年」でもはっきりとわかるものである、と強く実感した。家庭をはじめとした外部環境の影響力をひしひしと感じつつ、そこで培われたすべての個性へのリスペクトが生まれた。
そして、その個性を大人(ここでは先生)がどんな視点で見るかによって評価が変わってしまうことへの重大さ感じるようになった。
「落ち着きがない」と言われがちな園児をよく観察してみると、自分の作業そっちのけで他の園児の机を回っては「いいね!」と褒めていた。「作業をしない困る子」という切り取り方もできるし、「好奇心旺盛で人のいいところを見つけている子」という見方もできる。
これからの人生において、世間的に良くないとされる側面で評価されることはどうしても避けられないと思う。そこに対してもどかしい思いがあった。だったらわたしは19人全員の個性が最大限発揮されるクラスを創ることにチャレンジしてみようと思った。それぞれが自分らしさに気づき、それが自由に発揮できる、それによって自分の力を認められるようになったら最高じゃないか!と思った。
今考えると新卒1年目の右も左も分からない中で挑むチャレンジにしてはレベルが高すぎるし、当時のわたしも理想を実現するための方法がわからなかった。だから手当たり次第色々やっていたけど、自主的に選択できる環境づくりはなるべく意識するようにしていたかもしれない。
小さなことだけど、折り紙を配るときは「男の子だから青、女の子だからピンク」ではなく、本当に好きな色を自分で選んでもらう。行事の準備では強み別であらかじめ作業を分けておいて(体を動かすのが好きな子用、こつこつ製作が得意な子用、アイデアマン用など)やりたい作業を挙手してもらう、など。
もちろんいつもそれができたわけじゃないし、ちゃんとできていたかどうかも定かではない。余裕は常になかったし、先生としては子どもたちからダメ出しをくらうほどへっぽこだった。でも何かと充実した日々を送っていたような気がする。
自分へのウソが爆発
光が強ければ強いほど影も濃くなるように、充実感の裏で色々と困ったことが起きていた。当時の私はまったくと言っていいほど人に頼れなかった。周りの先生は忙しそうだったし、こんなことで迷惑をかけたら…という思い込みに囚われて全然大丈夫じゃないのに「大丈夫です!」と言い続けた。
実は幼少期から、周りの目を気にして我慢しすぎる側面があった。楽しいことや好きな事は延々と喋れるのに、誰かを困らせるようなことはどうしても言えない所があった。その癖が社会人になって暴走しはじめた。
完璧にこなさなければいけないと思い朝早く出勤し、最後まで残り、終わらない仕事を持ち帰り、そのまま寝落ちして慌てて出勤するような日々を過ごした。子どもを目の前にするとアドレナリンが出るのでなんとかやり過ごせてしまっていた。
しかし2年目で体調に異変が起き、年度途中で退職することになった。長く働きたいと思っていた当時のわたしにとって、短期離職は天と地がひっくり返るような出来事だった。
保育業界にはもう戻れない、だから次は絶対にうまくやらなきゃいけない。そう思い込んで簿記の資格を取った後、長く働けそうな経理事務の仕事に就いた。
そこでは環境に適応するために自分を押し殺し、必要以上にニコニコして本音を悟られないようにした。本心で生きていないので徐々に周りの人との距離が広がっていった。自分にウソをつき続けた結果耐えられずに爆発した時には、もうわたしには何も残ってないと思った。
今まで一生懸命生きてきたはずだった。でも、世間からは中途半端で頑張れない人間だと思われる。それを挽回できる術は何もない。絵も保育もダメだった。キャリア的にも短期離職が重なっていて転職エージェントには苦い顔をされる。人ともつながれない。
この頃は家族以外の人に会う気力がなかった。でも、ほぼ毎日誰かと会ったり、ワークショップなど一緒になにかをする夢を見た。夢の中では本当に幸せで、はっと目が覚めると一人。毎日心が抉られて、現実が辛くてたまらなかった。
なんとか転職できたものの「ダメな私はもっと頑張らなきゃ幸せになれない」という自己否定感が強く刻み込まれた。ただ、何をどう頑張れば幸せになれるのかはわからなかった。
■コーチングに出会ってから
やっと向き合えた本当の思い
そんな時にコーチングに出会った。正直、はじめは「未来」や「自己実現」という見えないものへの自己投資をしてしまったことにものすごく後悔した。お金を払ったところで望む未来が得られるとは限らない、ならば契約期間中は必死に行動して元をとってやろう…とすら考えていた。
実際にセッションが始まると、可能性を信じくれたコーチの関わりによって今まで知らなかった自分を知ることができ、徐々にそんな自分を受け入れられるようになっていった。そして、奥底に眠っていた願いに気づいていった。
自分なんかダメだ、生まれ変わって1からやり直したいと思っていたけど、本当は自分の可能性をもっと信じたい。
好きなことで生きていくなんて無理だと思って諦めたけど、本当はチャレンジしてみたい。
そして、人と関わり合って生きていきたい。
そんな願いに気付いてしまったら、見ないふりをすることはできなかった。
そこから現実にするために行動し始めたものの、その過程は決して心地いいことばかりではなかった。諦めそうになるたびに、「本当は何を望んでいるのか」「今どんな感情を味わっているのか」「思い込みがあるとしたらどんなことか」コーチと対話していく中で意識と視点を切り替えて、苦しくても前に進んでいった。そしてまた諦めそうになり、切り替える…を繰り返していった。
確固たる自信もないし、生まれ変わったかのように自己肯定感が高くなったわけではなかった。でも進みたい方向が見えているから、自信がない、自己肯定感も高くない自分を受け入れて進むしかなかった。一人ではきっと立ち止まっていたと思う。コーチがいたから、自分を見失わずに人生を前に進めていけたのだと思う。
気付いたら平日8時間は会社員として働き、それ以外の時間はコーチングとイラスト制作に没頭した。行動すればするほど、昔思い描いていた安定した未来とは違う方向に向かっていくのがわかった。でもそれでよかった。
自分らしく生きていこうともがいていたら、「鈴木まゆとはそういう人だ」と、ありのままの姿をいいねと言ってくれる友人や仕事仲間、人生をともに歩んでいきたいと思えるパートナーに出会うことができた。自分らしく生きることは、自分を偽って生きていた時よりもずっとあたたかくて生きやすいものだった。
そうしていくうちに、ずっと思っていた生まれ変わってやり直したい願望は消え、わたしはわたしの人生を思いっきり全うしてみたいと思えるようになった。
なぜコーチングをするのか、という問い
コーチングを学びながら常に悩んでいたのは、「コーチングという手法やその源流にある考え方は本当に素晴らしいものだけど、私自身がコーチになる必要はあるのか?」ということ。
そんなモヤモヤを抱えながら学びを続けていたある日、母が「私の人生は失敗だった」と言った。その時初めて、母はわたしの予想以上にたくさん心を殺して生きてきたのだと知った。その事実は憤りなんて言葉には例えられないほどつらく、何度も頭の中で反芻されては心を深く抉り続けた。
正直な所、これまで母の言動に対してどうしても許せなかったり、強いネガティブ感情をもったことは数えきれないほどある。でも、それでも死にものぐるいで娘を二人育て上げた努力は、人生は、すべて失敗だったのだろうか。
どうしても考えてしまう。当時の母の話をじっくり聴いて、出てきた言葉が本心じゃないと思ったら率直に愛をもって伝えてくれた人はいたのだろうか。
母は娘たちが大切だった。でもそれと同じくらい大切にしていたものだってあったはずだ。その価値観に耳を傾けてくれた人はいただろうか。
そしたら今と何かが違ったのだろうか。
人生なんて予想がつかない。決していいことばかりではなく、自分一人では到底抱えきれない大きなものがなだれ込んで来る時だってある。その時は立ち止まったっていいとわたしは思っている。そもそも、この瞬間に生きていること自体に価値があるのだから。
ただ、そこから前に進みたいと願った時、自分にとって本当に大切なことに気づいて道を選択し直すことができれば、みんなそれぞれの場所で自分なりの幸せを見つけながら自分の人生を生ききれるのではないかとも思う。
自分や母、これから出会う人たちに対して、「自分にウソをつかないで生きていってほしい」「最終的に自分の意思で幸せになる選択をしていってほしい」という願いを持っている。そして、コーチングという手法がわたしの知りうる限り、そこにもっともアプローチしやすいんじゃないかと思っている。
わたしはクライアントを沢山抱える立派な「コーチ」になりたいんじゃなくて、ただ純粋に出会った人と本音で人生について語り合いたいし、そんな大事な話を120%受けとれるようにコーチングという手法で向き合いたいと思っているんだと思う。
書きながらふと、人の成長に自分が関わることの影響力に対して真剣に考えていた保育短大生の頃の気持ちを思い出した。
「なぜコーチングをするのか」という問いにはこれからも真摯に向き合い続けたいと思っている。
でも結局は、「目の前の人がどんな人でなにをしているのか、自分がなにを思っていて、それをどう表現したら知ってもらえるのか」と純粋に思い、わたしはわたしとして自由に生きていたあの頃に答えがあるのかもしれないな〜と思い始めている。
おわりに
長文でしたが、ここまで読んでくださってありがとうございました。
「鈴木まゆと話してみたいぞ」「なんか気になる」と思っていただけたら、ぜひ下↓のnoteも読んでいただけるとうれしいです。
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