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「当たり前」は、本当に当たり前か?(キリスト教信仰について考える)

 当たり前のことを、当たり前にできる人になりなさい。子供の頃に、いろいろな方から言われたことを覚えています。当初は「誰でも当たり前のように簡単にできることを、きちんとやる」というぐらいの意味で理解していました。しかし世の中の「当たり前」が、誰もが簡単にできる当たり前のことでは決してないことが、最近分かってきたように思います。

 まずわたしがそれを感じたのは、子育てです。児童虐待がニュースになるたびに、親は子供を愛して当たり前であり児童虐待は人道を外れた行為であるかのような報道がなされます。しかし自らが親になると、子供を愛することの難しさを身に染みて感じます。機嫌のいい時は当たり前のように愛情を注ぐことができますが、“常に”愛し続けることは困難です。しかし、そうすることが当たり前であるかのような風潮が世の中には存在します。この「当たり前」という見方の中に、そのことが誰でも当たり前のように簡単にできることであり、それができないことは酷い人間であるという否定的な視線が含まれているように感じます。それが、子育てをより困難なものにものにしてしまっているように思うのです。実情を無視した安易な「当たり前」は、大変危険です。

 この安易な「当たり前」は、キリスト者が信仰について語るときにも注意しなければならないように思います。「イエス様を信じたのだから、○○するのは当たり前」。こんな言葉を発言したり耳にしたことは、ないでしょうか。あるいは心の中で、誰かに対して思ったことはないでしょうか。自戒と反省を込めて書きますが、わたしは幾度となくあります。これらは、できて当たり前のように思えることができない自分や誰かに向けられる言葉です。しかしその大半が、個々の実情を無視したものであるように感じます。例えば毎週日曜日の礼拝出席について。毎週礼拝に出席できる方ならば、それが当たり前のことと思うでしょう。しかし、礼拝に出られない事情をお持ちの方もいらっしゃいます。その実情に寄り添うことなく、安易に「礼拝出席は当たり前」を押し付けてはなりません。同じことが、礼拝出席だけでなく奉仕や献金や伝道といった、あらゆることに当てはまります。もちろん礼拝出席も、奉仕も、献金も、伝道も、決して軽んじてはなりません。しかしそれらが軽んじられているかのように思える状況に接するとき、安易な「当たり前」によって自分や誰かを責めることがないよう注意したいものです。

 思えばわたしたちたち人間が救われて、教会に結び合わされていることも、すべてはイエス様が十字架と復活によって成し遂げてくださった奇跡のできごとです。決して当たり前のことではありません。そう考えると、教会の中で「当たり前」なことは何一つありません。すべてが神の奇跡。そう思って信仰生活を送ることができたら素敵だなぁと思います。

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