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手放すことのできる贅沢

 とある民宿に泊まってきました。空き家となっている一軒家を一日一組で貸切ることができる宿泊施設です。セルフサービスが基本で食事も自炊ですので、コロナ禍のなかでも気兼ねなく宿泊することができました。しかも市内ということで、県境はもとより市境をまたぐこともありません。ただしかなり山奥にあり、車で3時間近くかかりました。また途中の道も悪いため、行く際には少々覚悟が必要でした。 

 この民宿の売りは「何もないこと」です。実際には、電気もガスも通っていますので、生活に困ることはありません。テレビも見ることができます。ただし、携帯は圏外です。インターネットもありません。実はそれが、この民宿を選んだ一番の理由でした。コロナウイルスが流行して以来、あらゆるメディアから様々な情報を収集し、対応策を考えてきました。そこで力を発揮したのがインターネットでした。また大半の会議がオンラインとなったこともあり、一日中パソコンの前に座って仕事をする日が格段に多くなりました。それと共に、気が付いたら携帯電話で情報をチェックするのが癖のようになってしまいました。そこで、インターネットや携帯電話から離れることのできる環境を求めて、この民宿に宿泊することにしたわけです。

 実際に行ってみますと、最寄りの市街を抜けたあたりで携帯は圏外となりました。そして、民宿のある集落(といっても、山の斜面に数件家がある程度)に到着しますと、そこにいる方々は誰もマスクをしていませんでした。集落への人の出入りがほとんどありませんので、必要ないのです。こうして、インターネットや携帯電話はおろかマスクもしない時間が与えられました。いざインターネットや携帯電話が使えなくなりますと、案外なくても普通に過ごすことができました。携帯電話を触る時間が減った分、使える時間が増えたように感じました。囲炉裏を囲んで食事をし、きれいな星空を見て、朝日を浴びながら散歩をしました。近所の方と会話する際も、マスクなしです。本当はした方がよいのでしょうが、誰もそんなことは気にしていませんでした。

 振り返れば振り返るほど、ここでの時間は、コロナ禍の中にあってこれ以上ない贅沢なものでした。贅沢というと通常、物やお金をたくさん持っている状態を思いうかべます。しかし今は、手放すことのできる環境がとても贅沢であることを思わされました。「貧しい人々は幸いである(ルカ6:20)」という主イエスの言葉を思わされます。物に溢れ、それでもなお持っていない物を追い求める現代において、豊かさとは何かを立ち止まって考える必要があるように思います。

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