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論語にある「四十にして惑わず」は本当なのか

 今日のテーマはタイトルの通り、「人は果たして40歳で迷いがなくなるものなのか」です。

 これは孔子の著した「論語」の中にある有名な一節ですが、その部分を書き出してみると全体像はこうなっています。

 「子曰く、『吾れ十有五にして学に志ざす。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳従う。七十にして心の欲する所に従って、矩(のり)を踰(こ)えず。』」

 昔の中国の偉い人のお話なので、今の日本と比べるのは違うのかも知れません。でも、人間の本質なんて時を経てもたいして変わらないだろうと思いながら読むと、ふむふむそんなものかなぁと思えてくるから不思議。

 だいたい中2くらいで進路を決めて中3で高校受験をするので、15歳でどんな道に進もうか決めるという点では、15歳くらいで学問を志した孔子と今の日本の子供はたいして違わないと思うし、30歳になれば仕事もだいたい一人で切り盛りできて、真の意味で自立できるんじゃないかという意味で、三十にして立つというのも正しいかなと思います。

 ・・・で、40歳で戸惑うということがなくなったと孔子は言っているのですが、わたくし只今、それより10歳も齢を重ねておりますが、なんと今更のように、人生の行く先に戸惑っている次第です(笑)。

 一つ前のnoteに書きましたが、この歳になって初めて、30年近くやってきた看護師という仕事が、もしかしたら自分には向いていないのではないかと思い始めてしまったのですが、それを孔子師が聞いたらどんな叱責をくださるかと、首を縮めたくなります。

 機会があれば書こうと思っていることの一つに、看護師は世間知らずに育てられ、いうなれば純粋培養であるという持論があります。単純に言ってしまうと、純粋=ピュア=お子ちゃま、という図式です。要するに一般社会から見ると成長していない、無垢な子供の精神を持った人が多いということです。

 なので、本当なら40歳で戸惑わなくなるべきところを、自分は世間様から10年も遅れてなお、その域に達していないということなのかなと、結構ショックを受けたりもしました。

 ですが、気を取り直して論語の先を読み進めてみると、なんとこうあるではありませんか。

 五十にして天命を知る、と。

 組織で働く看護師という仕事が自分に向いていないと気づくことができ、本当は何がしたかったのかが見えてきたのが50歳になった去年でした。

 人に「伝える」仕事がしたい。組織にいて消耗するだけの人生から何かを変えたい。

 そして、今がそれを実行するときなのではないかと思ったのです。

 自分の中ではとてもすんなりと腑に落ちた考えだったので、まさに天命を知った瞬間だったのではと思えました。

 と、ここで「四十にして惑わず」という言葉の意味に立ち返ってみると、確かに40歳の頃はあまり迷っていなかったなぁと感じます。看護管理者としての道を歩み始め、進むべき方向性が見えていたためです。遅くに授かった娘を育てながら、この子が成人になるまでに自分がどう働くべきか、すっきりと判っていたのですから、迷うことはなかったんですよね。

 そんなふうに見てみると、40代というのは自分の信念があり、それに向かって進んでいるのだけれど、ふと50代になって自分のすべき事が見えてきて、この世に生まれた役目を知るというような意味なのかなぁなどと解釈してみたり。

 天命を知った(ような気になっている)戸惑いまくりの私は、組織を去りフリーランスで仕事をするという、人生最大の大博打を打とうとしています。謂わば「攻め」に転じようとしているわけです。だいたい守りに入ることが多い年齢なのだと思うけれど、もしもこれが自分の天命なのであれば、逃げるのでも守るのでもなく、攻めるために迷っていきたいと感じています。

 五十にして惑い、天命を知る。

 そんな人生でもいいのかなー?

 

 

 

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