あいちトリエンナーレとプロパガンダ

#あいちトリエンナーレ の開催を抗議で止めさせるというのはさすがに表現の自由をなんと考えるだったがよく聞いたら少女像だけでなく昭和天皇の肖像の表現のされ方に不都合があったり、米国国旗を焼いたりしたそうで、そういうの悪いけど表現の自由ではないです。文化庁がお金出さないって言うはず。日本は立憲君主国です。国民の統合の象徴に敬意を持たず表現することに抵抗されるのは当たり前です。
そもそも文化庁のような官庁が申請された補助金を交付しないというのはよほどその申請に客観的妥当性がない場合で、あまりそういう決定をしませんよ文化庁。
#あいちトリエンナーレ の補助金を出さないと文化庁が言うと表現の自由の制限とか表現が萎縮するとかプロパガンダしている人間を何十人かTwitterで見るので、表現の自由は表現する題材への深い洞察や尊敬というものがないといかんのじゃないのかなあと思います。国旗焼いたり肖像毀損は違うよそれと。憎しみや不寛容というものを表現するときは正直であっても客観的要素を冷静に表現して名誉毀損や攻撃をすることはいかんのですし、それは表現する方にも鑑賞する方にも求められるマナーなのではないのでしょうか。
#あいちトリエンナーレ のことでも思ったけど、その表現をしたいという欲求をきちんと表現で社会的了承を得るような方法で表現するという制限は展覧会ならありますよ。どのように衝撃的な表現でもそれを見た人々がこれは表現であると好き嫌いの前に理解できるようにという責務が開いた人々にはある。
#あいちトリエンナーレ のことでは昭和天皇や米国に憎しみや不寛容の思想があるなら名誉を毀損するのではなく憎しみや不寛容の考えを正直に冷静に客観的要素を持って表現して、それを展覧会で発表していたのなら、文化庁が補助金出さないとか抗議や脅迫行為で開催を止めさせるのは表現の自由の制限や侵害ですよ。
#あいちトリエンナーレ のことで注意しないといけないのはこれを口実に表現の自由を制限するようなことを国家にさせないように監視して口実を与えないように動くことなんです。決して名誉毀損や攻撃を表現でせずに。
文化庁前デモってなんすかそれは。検閲反対って言うてますが。なんでデモになるのか。補助金出さなかったちゃんとした理由が想像できるので、デモで何を訴えたいんやろうかと思いました。表現の自由と集会の自由はまだ守られてますがね今のところ。
左翼の沼地の住人たちが補助金分配のアテが外れて騒いでいるようにしか見えません。何が検閲反対ですか。
文化や芸術を標榜していたら日本国憲法9条は守るべき、文化庁が展覧会の補助金出さないのは検閲なので反対。
そんなことで人類レベルの普遍に迫る表現など出来る訳がない。
表現の自由は戦ってその手にするものでその戦いは政治でするんじゃなくて文化の表現でするんやで。間違うな。本当に文化や芸術で表現するのなら検閲などはねのける表現をすればええんや。
それが証拠に #あいちトリエンナーレ の補助金不交付は検閲で検閲反対というてる人間の表現したもので誰でも知っている表現している人間居ないやんか。誰でも知っている表現している人間はこの問題に何にも言わんやんか。
#あいちトリエンナーレ が文化庁に出した補助金申請の報告書の内容と実際に開かれた展覧会の内容に食い違いがあったと聞きましたが、そういう展覧会に補助金出すわけないでしょう。
#あいちトリエンナーレ で愛知県と国の裁判になるらしいが、一体どういう風に落とし前を付けたいんやろう…補助金を出さないちゃんとした理由が説明されて愛知県の請求棄却になるだけのような気がすんねんな。河村たかしのあの反応が実は結構まともなものやったと、問題になった展示物が語ってて。
#あいちトリエンナーレ の何が問題だったかは大きく二種類で一つは抗議の電凸と脅迫行為で中止に追い込んだこと。もう一つは昭和天皇の肖像の表現のされ方や米国国旗の扱い方、矢面に立った少女像よりむしろこっちでしょ。少女像に関してプロパガンダを表現とするのかというベルリン五輪以来の問題点があって。
#あいちトリエンナーレ の補助金不交付に抗議やデモをと言っていてやっている人々ってプロパガンダも表現であると言いたいらしい。プロパガンダは表現ではなく政治宣伝だと思います。プロパガンダを芸術や表現の展示と言ってやると昭和天皇の肖像画毀損とか米国国旗焼却も表現って言うだろう。
#あいちトリエンナーレ が表現作品の展示というなら毛沢東時代のプロパガンダ看板とか北朝鮮のプロパガンダ看板とかも芸術作品だとかになってきませんかね。レーニン像とか、ソビエトマーチとかも。
#あいちトリエンナーレ のことであぶり出しのように露わになっているのは、芸術や表現というのは容易に政治宣伝に利用されてきていてそれは現在進行形であるということです。ベルリン五輪も少女像も昭和天皇の肖像画の扱いや米国国旗の扱いもそういう種類のプロパガンダだということです。

追記 2019年9月29日
少女像が訴えている性暴力をなくそうというメッセージは普遍的メッセージであるが、それを表現するときに本当に人間の野性と理性をきちんと見つめて洞察した表現なら、後になればなるほど可愛らしい少女像になっていく方向性とは違う表現にならないだろうか。
単に性暴力など実にろくでもないからなくさねばならないこの崇高なミッションのために原理を世界に広める、では人間の野性の側面から目を背けることになる。そのようなことで少女像を広めると表現ではなくプロパガンダになっていく。
性暴力をなくそうという最初の目的が後ろに引っ込んでいく。
手塚治虫の漫画も性暴力を表現したものがいくつもあり、その視点はリアリズムで描写されているが、古代の戦争ででも性暴力は厳然とあって実にそれは人間の野性の側面があり、それが現在進行形としてあるのが性暴力で、それを理性との拮抗で描写して表現していくというものはまだ世界にはない。
オアシスという韓国映画で性暴力と性の自主性というものがその人間の置かれている環境で誤解されて不本意なものになってしまうので自立を目指すという重度障害の女性が出てくる。おそらく韓国社会の方が日本社会より性暴力というものは切実な社会問題なのであろう。その背景と歴史から少女像というメッセージになってきたのであろう。

追記2019年9月30日
立憲民主党の枝野幸男が文化庁の補助金不交付はお上の都合のいい行事しか催されなくなると言っているそうである。
国家予算をアテにしてその国の論理に反する行事を催して噛みついたり不寛容や憎しみは表現してプロパガンダするからお金をよこせというのはあまり市民的方法ではない。
国家ならばどのような催しであろうと口を出さずお金を黙って出せというのも少し厚かましい。これが企業が出資する催しでその企業の悪口を宣伝することが出来るのかということも民と民はそうだが国と民なら民が国の悪口を言うのは許されるということのどの辺までがやっていいことかということがある。
それに展示会の実際の内容と展示会の報告書の内容が食い違いをしていたのなら、虚偽の事業に支出することになるから文化庁は不交付決定をしたのではないのだろうか。税金の使途に関していい加減なことを政府は他でしてるだろうからそれも追及しろとはまた種類が違い、政治的対立を文化事業に持ち込むなと言ってよく問題にされてきたのは五輪である。様相がそう推移するのなら国家と人間という観点から支出されるお金で展示会を開かず、展示会の趣旨に賛同した人間たちの出資で会を開けばよい。財政学が広い意味での倫理学と言われる所以である。

追記2019年9月30日19時30分
#あいちトリエンナーレ の表現の不自由展を再開するらしい。
開催内容と報告書の内容を一致させにきたらしい。補助金をどうしても得たいとみえる。
報告書の内容と開催内容とが一致しているならそれはそれです。

追記2019年10月3日
文化庁の言い分によると実現可能性や事業としての継続性を審査出来なかったと言っていて、本来この種類の展示会なら1回で終わりではなく折りに触れて催しなさいよ、それが文化でしょと補助金不交付後に言ったので審査委員の1人がそれを後出しじゃんけんと言って審査委員を辞めている。

追記2019年10月9日
ナチスのプロパガンダの芸術としての水準は高いものだったと言われている。軍服は第一線のファッションデザイナーのデザインであってそれに身を包んだヒトラーのポスターをカラー印刷したりしていた。
プロパガンダだとして日本を貶めたり批判的なメッセージを発信するのだとして、実際に見てきた人間がそれほどのものでもなかったと言っていて、表現の不自由展と言いながら鑑賞が不自由な展覧会でもない展示会で、しかも世の中の判断として批判に自分たちの表現を晒す姿勢も中途半端なものをしたところでこの展示会は失敗であろう。
芸術は時々プロパガンダに利用される。ナチスがそうだった。芸術の名を借りたものという感じの印象を持たれている #表現の不自由展 だが、純粋に芸術を表現して「まぬけな日本人の墓」とかにならんし、福島原発事故が自身の芸術の出発点な芸術家の作品もあったようである。政治性なしに表現困難なものである。中島らもがバンドも3人になると政治が始まると言っている。