見出し画像

小さな十字架を負う

ぎっくり腰の三日目。だまし、だまし、歩く。ときどき、グキッ、と来る。冷凍ビームを浴びたがごとく、一瞬で固まり、立ち尽くす。それから、また、だまし、だまし、動く。こんなことの繰り返し。。。

こういうとき、クリスチャンは「これは自分に与えられた小さな十字架だ」と考えるようにする、思考法のパターンがある。

イエス・キリストは、全人類の罪責をその身ひとつに引き受けて、十字架にかかり、罪をつぐない、ゆるしを与えた。なので、人間の根本の問題はもう全部、十字架で解決している、という見方をすることができる。これを、勝利主義、と言う。

そうであるはずなのに、なおイエスは、わたしたちに対して「あなたの十字架を取って、わたしのあとについてきなさい」と言っている。

今日の聖書の言葉。

それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 」
ルカによる福音書 9:23 新共同訳

えー、イエス様? わたしの罪はあなたが全部、十字架で終わらせてくださったんではないんですか? 小さな十字架であっても、負いたくないです、勘弁してください。。。と、甘ちゃんクリスチャンなら、つぶやくところ。

この、各自にあたえられている十字架の余白、というのが、いったいどこから生じて来るんだろう? これは、単純な勝利主義では、説明がつかない。

イエスは、ローマ総督ポンテオ・ピラトの官邸で十字架を負わされ、エルサレムのヴィア・ドロローサ(悲しみの道)と呼ばれる道を通って、城外のゴルゴダの丘(されこうべの丘)という処刑場まで歩いていった。

実は、イエスは自分だけで十字架を全行程、運んだわけではなかった。途中で力尽きて、地面に倒れ伏してしまったのだ。。。なぜなら、ピラトの官邸で何度も鞭打たれ、殴り倒され、体力を消耗しきっていたから。

それで、イエスにはこれ以上、十字架を運べない、と判断したローマ兵は、そばを歩いていたキレネ人のシモンというアフリカ系の男をつかまえて、無理やり彼に十字架を担わせ、処刑場まで運ばせたのだった。(クリスチャンは、イエスを、人となった神だと考えている。この立場からすると、イエスが十字架を運べなかった事実は、論理学でいう『全能のパラドックス』〔全能の神は、自分に運べない石を創造することができるか?〕に対する答えになっている、と観ることもできる)

画像1

ここに、イエスの十字架が、イエスではない「だれか」によって担われ得る余白が存在しているのではないだろうか? 余白の十字架、だ。

過去・現在・未来に生きる、すべての人間(その数、1000億人以上と推計される)が、日々、瞬間瞬間、ことば・思い・行い・怠りによって、故意に犯した一切の罪と、知らずに犯した一切の罪を、合わせ集めたら、膨大なボリュームになるだろう。だから、その全部をすこしも余さず身代わりに引き受けて、十字架で死ぬ、というわざは、神であり同時に人であるキリストにしかできないことだ。それが、救いのわざだ。

ところが、そのイエスの十字架の余白を、キレネ人シモンは、担わされた。

当然のことながら、単なる人間に過ぎないキレネ人シモンには、全人類の罪責を身代わりに引き受けることなど、できない。できるわけがない。それはイエスにしか、できないことだ。だが、キレネ人シモンは、イエスの十字架の余白を、担った。それは、全人類の救い、という大それたことのためではなく、ただ、倒れ伏しているイエスを助けるためだった。

キレネ人シモンは、余白の十字架を、自分で進んで引き受けたのではなかった。自分の意志に反して、無理やり負わされたのだ。彼には、それを拒否するという選択肢がなかった。

おそらくなのだが。。。キレネ人シモンが運んだ余白の十字架が、無数に分割されて、われわれにも与えられている、ということではないか? 

それは、だれかの救いのため、とか、全人類の救いのため、とか、そういうことではなく、イエスを助けるために、負え、と言われている余白の十字架だ。しかも、自分の意志に反するかたちで、無理やり、負わされるのだ。キレネ人シモンがそうであったように。

無理やりに。。。しかし、その上で、「ああ、これは、自分に与えられた十字架なんだ」と考えて、引き受ける決断をするしかないだろう。だって、拒否する選択肢が、無いんだから。。。コロナ禍も。。。ぎっくり腰も。。。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?