見出し画像

イエスキリストとは誰か?

イエスキリストとは誰か? これは現代において、なお重要な問いかけですね。

イエスキリストの福音は世界にあまねく宣べ伝えられています。あらゆる国民・国語・民族・文化の人々に、それぞれの国語に訳された福音書が届けられております。

すべての人が聖書を手にし、それを読み、その上で、イエスキリストとは誰なのかについて、自分自身の態度を決定しなければなりません。

クリスチャンと呼ばれる人たちは、すでに自分自身の態度を決定した者ですね。すなわち、イエスキリストこそ神であることを、わたしたちのアーメンをもって承服し、承諾し、そこに信を置いた者たちです。

ですので、クリスチャンには、自分がイエスをどう受け入れたのか(ほんとうを言えば、イエスがわたしたちをつかみとってくださったのだということを、わたしたちは認め、また、語らざるを得ないのですが)ということを、ほかの人々に説明するつとめがあります。

それはちょうど、伝道者フィリポが馬車の上のエチオピアの宦官に、イエスとは誰なのかを紹介するようなつとめです。

現代人もまた、馬車の上の宦官のように、決して止まらない忙しい生活の中で、慌ただしく動き続けております。そこに飛び乗って、聖書は何と言っているのか、イエスとは誰なのかを、説明するつとめ。それが、わたしたちのつとめです。

そういう意味で、ヨハネによる福音書1:1において、イエスキリストは誰だと言われているか、ということを、ご一緒に見て行きたいと思います。

ヨハネ1:1a「初めに言があった」

ここは、聖書の原語であるコイネーギリシャ語で、このように書かれています。

エン・アルケー・エーン・ホ・ロゴス

アルケーとは万物の根源という意味です。

それは、時間の根源、空間の根源、運動の根源、物質の根源、すべてのものの根源ということですね。

この万物の根源において、ロゴスがあったのだ、という。これがヨハネによる福音書の最初の宣言です。

ロゴスというのは、言(ことば)ですけれども、言というのは、哲学的には、分節化の機能である、といわれます。

万物の根源において、分節化の機能である言があったのだ、ということです。

ここで、「分節化」ということについて、ちょっと考えてみましょう。

わたしたちは、何もない世界に生きているのではありません。何かがある世界に生きているのです。

いろいろなものがありますよね。ない、のではなく、ある、のです。この、いろいろな「ある」は、すべて分節化によって、それぞれの具体的なものとして、存在しているのです。

ちょっと実験してみましょう。(一人の女性を立たせて)それではみなさんに、これから言葉でもって分節化していただきますけれども、いまみなさんの目の前に、これが「ある」わけですよね。

すべての言葉をそぎ落として行って、一番原初的な表現で描写してもらうとしたら、これは「ある」ですよね。この「ある」というところから分節化がスタートします。では、「ある」を分節化して行きましょう。

ある → 
女性がいる → 
日本人の女性がいる → 
若い日本人の女性がいる → 
救世軍の制服を着た若い日本人の女性がいる → 
救世軍の中尉の制服を着た若い日本人の女性が杉並小隊の2階にいる

このように、原初的な状態である「ある」から、徐々に言葉によって分節化して行って具体的なものになっていく様子を、見てもらいました。

わたしたちは、いろんなものを認識していますけれども、この認識の根源にあるのは、原初的な「ある」なんですね。あ、何かがあるな、という感覚。認識。

そこからわたしたちは、言葉によって分節化していって、それが具体的に何である、ということの認識をしているわけです。

これは、わたしたちの精神において、言葉の作用、言葉の働きというものがあって、わたしたちはつねにこの言葉による分節化ということを通して、いろんなものを認識している。こうして、わたしたちを取り囲む世界が成立しているわけですね。

ところが、何かの不具合がわたしたちの精神に起きた場合、この分節化という作業がきちんとできなくなってしまうことがある。

たとえば、高齢者の認知症ですね。そうなってしまうと、目の前に自分の息子と娘がいるのに、認識できない。だれかがいる、ということはわかるんだけれども、それ以上の分節化ができない。だから、だれかがいるのはわかるけれど、それがだれだかわからない、ということが起きるわけです。

さて、以上説明した言葉による分節化ということは、わたしたちひとりひとりの精神の中で作用していることですけれども、ヨハネによる福音書の記者は、それが万物の根源において、宇宙レベルのスケールで起きているんだ、ということを言っています。

万物の根源である「ある」が、言によって分節化されて、宇宙が成った、この世界が成ったということですね。

これは何も、福音書記者ヨハネの突飛な発想によるものではなくて、旧約聖書の創世記にきちんと根拠したものなんです。

創世記冒頭の天地創造の記事を見ると、それはまさに、万物の根源である「ある」が、言によって分節化されて、宇宙が生まれて来るプロセスを描いているものなんですね。では、創世記を見てみましょう。

創世記1:2「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」

ここで、混沌というのはヘブライ語でトーフー・ワ・ボーフーという言葉が使われていますが、これは、混沌とした曖昧模糊な状態、ということですね。

これがまさに万物の根源である「ある」です。

これに向かって、神様は言を発せられるんですね。

1:3「神は言われた。光あれ。こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた」 

このように、混沌とした曖昧模糊な「ある」が、神の言によって分節化され、切り分けられて、光と闇となり、光は昼と呼ばれ、闇は夜と呼ばれるのです。まさに、言による分節化という作用によって、光と闇が創造された、ということなんですね。

神様はさらに、この言による分節化ということを進めて行かれます。

1:6「神は言われた。水の中に大空あれ。水と水を分けよ」と。

こうして、大空の上の世界と、大空の下の世界が、分節化されるんです。さらに大空の下の世界が分節化されて、海と陸となります。陸が分節化されて、土と植物となります。光が分節化されて、太陽と月と星になります。さらに分節化が進んで、さまざまな生き物が生まれます。

最後に、人間が分節化されますが、人間は男と女とに分節化されるんですね。

こうして、いまわたしたちが知っている世界が成り立つことになる。

これはすべて、万物の根源である「ある」を神の言が分節化するという作用によって、成り立っている。創世記は、そういうふうにこの世界の成り立ちを描いています。

そういう創世記の冒頭における天地創造のプロセスがある。

それを、的確な言葉でズバリと表現したのが、このヨハネによる福音書の第1章の言葉なんですね。

エン・アルケー・ホ・ロゴス・エーン。すなわち、万物の根源において、分節化する作用であるところの言があった、ということなんです。

ですから、1:3「万物は言によって成った」のであり「成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」ということになるんですよ。

そういう意味で、最初にあったこの言は創造者。天地万物の創造者だと言っていいわけです。

そして、わたしたちは、この言がイエスキリストであることを知っています。ヨハネ1章が言っているのは、そういうことですから。

すると、論理的に考えて、イエスキリストが天地万物の創造者だ、ということになります。

これは、福音書記者ヨハネだけの突飛な思想ではない。新約聖書全体と調和のとれた考え方なんですよ。

たとえば、ヘブライ人への手紙1:2「神は・・・御子によって世界を創造されました」と言われており、コロサイの信徒への手紙1:16「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました」と言われています。

これは、新約聖書全体の首尾一貫したメッセージなんですよ。すなわち、万物は言によって創造された。この言とはイエスキリストだ、ということです。

ところで、万物の根源である「ある」が、言によって分節化されて、世界になったんだという。

この考え方自体は、ギリシャやローマの哲学、東洋の哲学、それから現代の哲学である現象学なんかにも見られるものなんです。これについては、井筒俊彦という哲学者が書いた『意識と本質』という本の中で詳細に論じられています。

そうしますとですね、福音書記者ヨハネが行った「万物はイエスキリストによってできた」という偉大な宣言は、この世のいろんな哲学と似たり寄ったりの、同列のものに過ぎない、ということになるんだろうか?

いや、そうではない。そこには、明確な区別があるんですね。

ギリシャ・ローマの哲学や東洋の哲学においては、万物の根源である「ある」と、それを分節化する言とが、つねに同一視されてしまうんです。

つまり、混沌とした曖昧模糊な「ある」それ自体が言でもあったんだ。そうして、混沌とした曖昧模糊な「ある」が自分で自分を分節化していって世界になったんだ、自己分節化したんだ、という考え方をするんです。

自己分節化の例。たとえば中国の道教では、万物の根源である「ある」を太極と言いますけど、この太極が自分で分節化して陰と陽になり、さらに陰と陽が分節化して、世界になるわけですね。

このように、万物の根源である「ある」と、それを分節化する作用とが、同一であるというふうにみる見方を思想的には「汎神論」と呼びます。

つまり、ギリシャ・ローマの哲学や東洋の哲学、現代の哲学は、汎神論なんですよ。創造者である神と、創造された世界とは、同一なんだ。この宇宙全体が神だ。そういう考え方ですね。

しかし、福音書記者ヨハネの言葉づかいに注意してみましょう。

エン・アルケー・ホ・ロゴス・エーン。万物の根源において、言があった、と宣言しているのです。このエン「おいて」は、重要なエン「おいて」ですね。

もし福音書記者ヨハネがホ・ロゴス・エーン・アルケーあるいはアルケー・エーン・ホ・ロゴスすなわち、言イクオール万物の根源なんだ、と表現していたとしたら、これは汎神論になってしまいます。

しかしヨハネは、そうは言っていないんですね。万物の根源に「おいて」言があった、というふうに、混沌とした曖昧模糊な「ある」と、それを分節化する作用であるところの言とを、しっかりと区別しているんです。

そのことはまた、創世記冒頭の描写を、わたしたちに思い起こさせるんです。

1:2「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」 

神の霊は、混沌とした曖昧模糊な「ある」と混ざり合ってはいません。混ざり合わないで、区別されています。

区別されているけれど、かといって、遠くにいるのでもありません。混沌とした曖昧模糊な「ある」に、ぴったり寄り添うようにして神の霊が動いているんだ。そう描いていますね。英語の聖書では、その様態を「ホバリングしていた」と訳しているものもあります。

創世記は、万物の根源である「ある」と、それを分節化する創造者の存在とを、明確に区別しています。

まさにこの点において、福音書記者ヨハネの宣言「はじめに言があった」という偉大な宣言は、この世の哲学、ギリシャ・ローマの哲学、東洋の哲学、現代の現象学とは、明確に区別されることになるんです。

さて、わたしたちは、次の問題に進んで行くことにしましょう。

万物は言によって分節化されて世界に成った。この言によって、すべてのものが出来た。出来たもので、言によらないものは、何一つなかった。

だから、この言は創造者であり、この言は神だ、と言ってもさしつかえないですよね。この点について、福音書記者は、何と言っているのでしょうか。

1:1b「言は神と共にあった」

ホ・ロゴス・エーン・プロス・トン・テオン

この言は、神と共にあった。このように宣言しているんですよ。

ここに至って、わたしたちはほんとうに重大な事態に立ち入っていることになります。

分節化の作用によって万物を創造した言は、神と共にあった、と言うんです。神があって、その神と共に言があった、と言うんですね。

ここからわたしたちは、単純な唯一神教であるユダヤ教やイスラム教とは明らかに袂を分かつことになるんです。

神と共にある言。

最初に、神だけがあったんではない。

最初に、言だけがあったんではない。

最初に、神と言とが共にあったんだ、というんです。

では、この神と言との間の関係は、どういう関係なんだろうか。

わたしたちは、この言がイエスキリストであることを知っているわけなんですが、イエスキリストご自身は、この神と言との間の関係を、父と子の関係、というふうに表現されているんですね。

神が父であり、言が子である、という、父と子の関係です。

そして、新約聖書正典は、首尾一貫してこの関係でもって捉えているんですね。

すなわち、もういちどヘブライ人への手紙を引用しますが、1:2「神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました」というように、御子と言っています。父と子の関係ですね。

コロサイの信徒への手紙1:16-17も「万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものより先におられ、すべてのものは御子によって支えられています」というように、やはり、御子と言っています。父と子の関係ですね。

神と共に言があり、この神と言との間の関係は父と子の関係である。これが、地球上のどのような宗教哲学にも見られない、新約聖書正典に独特なユニークな主張なのです。

それはすなわち、この宇宙のはじめに、父と子の間の人格的な関係があった、という主張なんですよ。

この人格的な関係を、わたしたちは「愛」と言います。

この宇宙のはじまりにあったもの、混沌とした曖昧模糊な万物の根源である「ある」を、いまわたしたちが知っているような世界としてあらしめているもの。それは何なのか? 

それは原理ではないし、法則ではないし、機械ではないし、数式でもない。「愛」だというんですね。

父と子の人格的な関係である「愛」が、この宇宙のはじめにあり、この愛が、宇宙を創造し、この愛が、いまわたしたちを存在させているものだ、ということなんです。

だからわたしたちが「愛こそすべて」と歌うときに、わたしたちは何も非理性的な非合理的な根拠のない感傷的な願望を歌っているんではないんですね。

ソリッドな、コンクリートな、きちんとした根拠にたって「愛こそすべて」と歌うことができるんです。

はじまりにおいて、神と言、父と子の関係があった、というヨハネの宣言こそが、根拠です。

そして、父と子の関係を目に見えるかたちでわたしたちの前に体現したのが主イエスキリストです。ですから福音書記者ヨハネは、イエスキリストのことを「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(1:14)と言っているのです。

言とはイエスキリストである。そして、神と言との関係は、父と子の関係である。

しかし、わたしたちは、そこにとどまっているべきではありません。ヨハネと共に、次の段階に進んで行かなければなりません。

1:1c「言は神であった」

テオス・エーン・ホ・ロゴス

この言は神であった。

この宣言において、わたしたちはクリスチャンとなるのです。

わたしたちは、ギリシャ・ローマの哲学でもなく、東洋の哲学でも現代の現象学でもなく、ユダヤ教でもイスラム教でもない立場。この世界において、新約聖書正典のみが主張している独特なユニークな立場へと歩を進めて行くことになるのです。

それがすなわち、この言は神であった、ということです。

これは、いったい、どういう事態を意味しているのでしょうか。

わたしたちは、まず、言に注目しましょう。

言、ロゴスには冠詞であるホが付いています。ホ・ロゴスですね。それによって、「この言」という意味になります。

あの言でもなく、どの言でもなく、この言ですね。

この言というのは、1:1aで示されている「万物の根源にあった言」であり、1:1bで示されている「神と共にあった言」です。それが、この言です。

そして、テオス・エーン・ホ・ロゴス。この言は神であった、と宣言されています。

ここでわたしたちは、テオスには冠詞ホが付いていないことに注目しなければなりません。ホ・テオスではなくって、ただのテオスなんですよ。

もし、テオスに冠詞ホが付いていたら、どういうことになるんでしょうか? 

これは仮定の議論になりますけれども、もしホが付いていた、と考えてみましょう。すなわち、ホ・テオス・エーン・ホ・ロゴスです。

この神はこの言であった。あるいは、この言はこの神であった、という宣言になります。

それでは、この神、ホ・テオスは、どの神を指すことになるのか。

冠詞ホによって、この神と特定しているわけですから、それは当然、その前の1:1bにおける「言は神と共にあった」で示されている神を指していることになります。

すると、もし冠詞ホがテオスについていたら、こういうことになりますよ。

万物の根源に言があった。言は神と共にあった。言と共にあった神は、実は、この言そのものであった。この神がこの言であった。この言がこの神であった、ということになるんです。

さて、わたしたちは、この神というのは父なる神を特定していることを知っております。神と言との関係は、1:18aで「父のふところにいる独り子なる神」という言葉で表現されているとおり、父と子の関係でしたね。

ところで、この神がこの言であった、というんなら、どうことになるのか? それはすなわち、この神すなわち父は、この言すなわち独り子イエスキリストであった、ということになってしまうんですよ。

つまり、父なる神はイエスキリストだった、あるいは、イエスキリストは父なる神だった、ということになってしまうんですね。

父なる神がイエスキリストだ。イエスキリストが父なる神だ。二人は、ただ様態が違うだけであって、ほんとうは同じなんだ。

これを「様態論」あるいはサベリウス主義と言いまして、わたしたちは、教理的にはこれは間違いだ、ということを知っております。これは今日でもワンネス・ペンテコスタリズム派の人々が奉じている考え方です。

もしテオスに冠詞ホが付いていたら、そういうことになってしまうんですよ。

この神、父なる神は、この言、イエスキリストだった、ということになってしまう。福音書記者ヨハネは、そういう様態論を主張しているんでしょうか? 

しかし、わたしたちは注意しましょう。ヨハネの本文には、1:1cのテオスに冠詞ホは、無いのです。

ホ・テオス・エーン・ホ・ロゴスではなく、テオス・エーン・ホ・ロゴスなのです。

そして、これはヨハネ福音書の本文の底本となっている、いろいろの写本を比べてみても、どれも一様に、冠詞の無いテオスになっているんですね。

だから、福音書記者ヨハネが1:1cを神の霊感を受けて書いたときに、冠詞の無いテオスとして書いたこと。これは歴史的にも文献学的にも間違いの無い事実です。

ホがあるか、無いかで、非常に大きな問題になるわけですが、この点について、聖書学者たちは、次のような見解を述べています。いま順番にそれを見て行きましょう。

ダラム主教で聖書学者のブルック・フォス・ウェストコットはこう言っています。

「それが、言の性質を叙述するものであって、人格を明らかにするものでないなら、冠詞を付ける必要がない。『言はホ テオスであった』と言うなら、純然たるサベリウス主義(様態論)になってしまう」

南部バプテスト神学校教授で聖書学者のアーチボルド・トーマス・ロバートソンはこう言っています。

「ホ テオス エーン ホ ロゴス(入れ替え可能な語)であるなら、純然たるサベリウス主義になる。ここでの冠詞の欠如は、正しい概念の目的と本質に合致している」

『ギリシャ語新約聖書の文法の手引』を共著したH.E.ダナとジュリアス・R・マンテイはこう言っています。

「テオス エーン ホ ロゴスは、キリストが神性に参与していることを強調している」

ドイツ改革派教会牧師で聖書学者のヨハン・ペーター・ランゲはこう言っています。

「冠詞を付けないテオスは、神の性質を意味し、あるいは、人間や天使とは区別された神の属性的概念を意味する。ちょうど、14節のサルクス(肉)が、ロゴスの人間としての性質を意味しているのと同様である」

ケンブリッジ大学トリニティー学寮の教員で聖書学者のヘンリー・アルフォードはこう言っています。

「テオスは、本質と性質において神を意味するもの、と捉えねばならず、父の人格としてのホ テオスではない」

以上のように、冠詞を付けない用法を「定性用法」と言うのです。

この言が神であるという、それが定性用法である場合、その意味するところは、イエスキリストは、この神すなわち父なる神ではないけれども、しかし、イエスキリストは神である。

イエスキリストは神であって、しかも、イエスキリストは父なる神ではない、別の人格である、という。

この関係に聖霊を加えて教理として表現したものが、三位一体の教理ですね。

父なる神は、神である。

イエスキリストは、神である。

しかし、父なる神はイエスキリストではない。

イエスキリストは父なる神ではない。

だが、二人の神がいるのではない。ただひとりの神がいる。

ただひとりの神に、区別される二つの人格がある。

さらにこれに聖霊が加わることによって、クリスチャンがよく知っている三位一体の教理の定式となります。

ところがですね、わたしたちが気を付けなければならないのは、いわゆるエホバの証人のひとたちは、テオスにホが付いていないことでもって、イエスキリストが神であることを否定しようとしていることです。

わたしたちは、このような彼らのよこしまなたくらみに対して、しっかり立って、正しい聖書の教えに踏みとどまらなければなりません。

エホバの証人の人たちは、テオスにホが付いていないことをもって、「イエスキリストは神のような性質を持つ者であったが、神そのものではなかった」といふうに、独自の解釈をするのです。

さらに、もしイエスキリストが、正真正銘、本当の神であったならば、聖書はテオスにホを付けたはずである、という主張をします。

すなわち、1:1cがホ・テオス・エーン・ホ・ロゴスであって、はじめてイエスは神だ、ということになるけれども、実際はホが無いんだから、イエスは神のようなものであって、しかしその実、神そのものではない、というふうに主張するのです。

わたしたちは、1:1cのテオスにホが付いていたら、イエスは父なる神だ、そして、父なる神はイエスだ、という意味になる、ということを知っておりますね。そして、それはサベリウス主義の様態論という間違いだ、ということを知っております。

ですから、1:1cのテオスにホが付いていたらいけないんです。

ところが、エホバの証人たちは、ホが付いていないから、イエスは神ではない、という、彼らのアリウス主義に特有な主張を展開するのです。

わたしたちは、これに対して、どう考えればいいんだろうか。

やはり、テオスにホが付いていないということは、これは定性用法だ、ということから、しっかりと考えて行かなければなりません。

そこで、ランゲの言葉をもう一度引用しますね。ランゲはこう言っています。

「冠詞を付けないテオスは、神の性質を意味し、あるいは、人間や天使とは区別された神の属性的概念を意味する。ちょうど、14節のサルクス(肉)が、ロゴスの人間としての性質を意味しているのと同様である」

ランゲは、テオスにホが付いていないのは、1:14aのサルクスにホが付いていないのと、同じだよ、と考えるのです。

1:14aのホの無いサルクスは、これは定性用法ですから、その意味は、イエスキリストが受肉して人間としての性質を持つ者となった、という意味になりますね。

言は肉となって、というのは、キリストが人間の性質を持つ者として、ベツレヘムの馬小屋の飼葉桶の中にお生まれになった、というクリスマスの喜びのメッセージです。

さて、ここでもしエホバの証人の主張が正しいとしたら、どういうことになりますか? 

テオスにホが無いのだから、イエスキリストは神のようなものであったけれど、神そのものではなかった。なぜなら、ホが無いから。テオスにホが無いからイエスは神ではない、ということでした。

すると、これを1:14aのサルクスにもあてはめなければならないことになる。

どうなりますか? 

サルクスにホが無いのだから、イエスキリストは人間のようなものであったけれど、人間そのものではなかった。なぜなら、ホが無いから。サルクスにホが無いからイエスは人間ではない、ということになってしまいます。

これは大変なことですよ。

イエスキリストは人間のような姿をしてはいたが、実は、人間そのものではなかった。あくまで人間のような外見をしていただけであって、人間のような肉体を持っていたわけではなかった、ということになってしまう。

こういう考え方は、グノーシス主義の仮現論の間違いであることを、わたしたちは知っています。

このように、ホがないのを「何々のようではあるが、その実、何々でない」というエホバの証人が言うように受け取った場合、イエスキリストは神ではないばかりではなく、1:14aの記述に照合して、イエスキリストは人間でもない、ということになってしまう。

こうして、イエスキリストが肉体をとって、まことの人間としておいでになったという福音の偉大な宣言を、まっこうから否定することになってしまうんですよ。

イエスキリストが肉体をとって来られたことを否定するならば、それは明白に異端です。

異端であるかないかを識別する重要な判別基準が、聖書に示されています。それは、イエスの肉体をとって来られたことを肯定するか否定するか、という一点にあるのです。

その異端判別基準を、福音書記者ヨハネは手紙で明白に述べています。

「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。イエスキリストが肉となって来られたことを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です」(ヨハネ一4:1-3)

そうしますと、わたしたちは、ヨハネ1:1cにおいてテオスにホが無いということを、いつも・つねに・たえず、1:14aのサルクスにホが無いということとセットで考えなければなりません。

しかも、ヨハネ一4:2の「異端判別基準」を念頭に置いて、判断しなければなりません。

つまり、1:14aの意味がグノーシス主義の仮現論になってしまう誤りを回避するためには、1:1cにおけるホの無いテオスは「三位一体論」を正しい答えとするしか道がない。ほかの道は無い、ということなんです。

1:2a「この言は、初めに神と共にあった」

フートス・エーン・エン・アルケー・プロス・トン・テオン

さて、以上の議論をふまえた上で、わたしたちは1:2aの偉大な宣言にたどりつきます。

フートス・エーン。これは関係代名詞でありまして、この言、イエスキリストを指しておりますね。

フートス・エーン・エン・アルケー。この言、イエスキリストが、万物の根源にあった。

プロス・トン・テオン。この言は、この神と共にあった。

この言は「この神」と共にあった、という点が、非常に重要です。

さきほどの1:1cとは違って、1:2aではテオスにホが付いているんですよ。それが「共に」という前置詞プロスによって対格のかたちを取ることによって、トン・テオンとなっている。

この言は「この神」と共にあった、という意味です。

すると、どういうことになりますか? 

「この言は万物の根源にあった」これが1:1aの宣言ですね。

「この言は神と共にあった」これが1:1bの宣言ですね。

「この言は神であった」これが1:1cの宣言ですね。それはつまり、この言は神であった・しかし・この言葉は「この神」ではなかった。つまり、父は神であり、子も神であるが、父は子ではないし、子は父ではない。

それを踏まえて、1:2aは「この言は『この神』と共にあった」と宣言するんです。

イエスキリストは父なる神と共にいるんだ、というんです。

この「共にいる関係」をヨハネは1:18bで「父のふところにいる独り子である神」と呼んでいますね。原文のコイネーギリシャ語では「モノゲネース・テオス」となっています。独り子(モノ)として神から生まれた(ゲネー)ところの神、という意味になります。

この神の独り子であるイエスキリストこそが、わたしたちを救う福音そのものなのです。

福音書記者ヨハネによれば、イエスは神であって、言としての分節化の働きによって、万物を創造された創造主です。その創造主が、肉体をとり、人間となって、わたしたちのもとへ来てくださった。

そればかりではない。他の新約聖書全体を見るならば、イエスは、十字架と復活のみわざによって、わたしたちをゆるし、いやし、生かし、聖霊を与えてくださった、救い主であることが示されています。

イエスは、聖霊をとおして、わたしたちを三位一体の神との交わりの中に迎え入れてくださいました。

以上のようなヨハネの福音書の偉大な宣言にもとづいて、わたしたちは、イエスキリストが、どういう方であるのか、について見てきました。

わたしたちは、このイエスキリストを深く知り、イエスキリストに深く結びつき、イエスキリストの愛のうちに深く根差して、生きていきたいと思います。

むすびのことば

わたしたちは大胆に告白すべきです。この世界、この宇宙の万物は、イエスキリストによって創造されました。

わたしたちは大胆に告白すべきです。このイエスキリストこそ、永遠から永遠に父なる神と共におられるおかたです。

わたしたちは大胆に告白すべきです。イエスキリストは神です。しかし、イエスと父なる神とは、別人格です。しかも複数の神々がいるのではありません。父なる神と、父の独り子であるイエスキリストと、父と子の愛の交わりである聖霊なる神。この三位一体の神がおられるのです。

わたしたちは大胆に告白すべきです。聖書の福音は、サベリウス主義の様態論でもなく、グノーシス主義の仮現論でもなく、アリウス主義のエホバの証人でもない。三位一体の神の栄光の福音である。そのことをヨハネは宣言しているのです。

わたしたちは、この点にしっかりとふみとどまって、イエスこそ主であることを、現代においても証しして行きたいと思います。

祈り

福音書記者ヨハネに聖霊を送り、
霊感を与え、福音書を書かせ、
キリスト論について明らかに示してくださった
父なる神様。
どうかわたしたちにも
あなたの聖霊を与えてくださり、
聖霊の光の中で、
聖書の言葉を開いてくださり、
わたしたちがイエスキリストに
まことに出会うことができますように、
お導きください。
世界のすべての人々を
聖霊の光で照らし、
福音の光へと導いてください。
あなたの独り子イエスキリストの御名によって、
お願いいたします。
アーメン

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?