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トム・ボンバディルとその家

自分は中学1年のころ、ノイローゼ気味のときがあって、実は、自分が生きてるのは仮想世界で、半径500メートルしか存在してないんじゃないか。。。だから、遠くに見えるあのビルは、書き割りで、その向こうは、何も無いんじゃないか。。。という感覚に、いつも閉じ込められていた。

まあ、ヴリル協会の世界観、みたいな本ばかし読んでたら、そうはなるわな。。。

そんなとき出会ったのが、J.R.R.トールキンの『指輪物語』だった。評論社の文庫版、瀬田貞二訳、9ポイントの細かい活字、全9巻。カバー絵は、バクシ版アニメ映画『指輪物語』(興行的に不振で前編しか作られなかった)のポスターが使われていた。

読みだしたら止まらず、深夜、布団をかぶって懐中電灯で読みふけった。。。結果、遠視だったのが、わずか一週間でド近眼に。

不思議な感覚だった。。。だって、読んでいるのは、すべてトールキンの脳内で作られた仮想世界のはずなのに、描かれているすべて、森も、丘も、小川も、道に落ちてる小石までも、ほんとうに存在しているように、リアルに感じられたんだもん。

そして、ホビットたちが、あきらめずに旅を続け、霧降山脈の坑道を抜けて「向こう側」に出たシーンで。。。自分の中の何かが、変わった。

青年時代のオカルト遍歴を経て無神論者になったC.S.ルイスは、ジョージ・マクドナルドの『ファンタステス』を、駅の売店で何気なく買って、読み始め、その結果「想像力の回心」を経験し、それからしばらくして、イエス・キリストを神と認めて受け入れるという「魂の回心」にみちびかれたんだけど * 。。。なんか、それ、わかる。。。自分の場合は『指輪物語』を読んで一年後に、キリストを信じた。

まあ、変だよね。。。現実世界を仮想世界と思って悩んでた少年が、仮想世界の本を読んだ結果、現実世界をリアルな現実世界として再認識した、なんてね。

今日の聖書の言葉。

主は恵み深く、苦しみの日には砦となり 主に身を寄せる者を御心に留められる。
ナホム書 1:7 新共同訳

苦しみの日に、逃げ込める砦。。。身を寄せる者に、心を注いで世話してくれるひと。。。

不安な感覚の中で、自分には、逃げ場所が絶対に必要、ということは、生理的にわかっていた。でも、それが、どこにあって、どういうかたちをしているのか、イメージできなかった。

でも『指輪物語』を読みはじめ、第1篇「旅の仲間」の7章「トム・ボンバディルの家」にさしかかったとき、イメージできたんだ。。。ここだ、こういう場所に、自分は逃げ込みたいんだ、と。

それは、冒険の主人公であるホビットたち4人が、古森という、魑魅魍魎が棲むクライモリを通過しようとして、魔の手にかかり、恐ろしい目に遭うんだけれど、トム・ボンバディルという "不思議な森のおじさん" に救い出され、彼の家に泊めてもらう、というくだり。トム・ボンバディルは奥さんの水辺の妖精ゴールドベリと共に、ホビットたちをもてなし、休息させ、心の傷をいやし、元気にさせるんだ。

トールキン自身による作品解説では、トム・ボンバディルは、創造主によってその世界につくられた最初の人間、ということになっている。われわれの世界では、最初の人間アダムは、残念ながら堕罪したわけだけど **、トールキンの仮想世界では、最初の人間トムは、堕罪せず、その結果、不死の人間として生きている。彼は、古森の怪異である人食い柳の木 Old Man Willow が、ちっちゃな芽だったときから見てきた、とほうもない年寄りなんだ。これは、もしアダムが堕罪しなかったら、どんなキャラクターになってただろう、というトールキン流の思考シミュレーションなのかもしれない。

トム・ボンバディルは、自分以外の主人をもたない。だから、彼は、何によっても支配されず、何者にもおびやかされない。。。最凶の魔力を持つ「ひとつの指輪」すら、彼には、何の影響も与えられない。なので、古森の魑魅魍魎は、彼の家に絶対に入って来れない。何も恐れない彼は、いつも陽気に飛び回っている。その彼が、小さな人たちであるホビットに、喜んで給仕し、もてなすんだ。

だれにも支配されない主人が、最も小さい人たちに、仕える。。。

この『指輪物語』を読んで一年後、自分は「魂の回心」を経験した。小学校1年のときに捨てたイエス・キリストを、もう一度、神として信じる回心をしたんだ。そして、口で表せない平安を経験した。

それは、あの仮想世界のなかのトム・ボンバディルとその家が、現実世界でリアルになった瞬間だった。

註)
* C.S.ルイス『喜びのおとずれ』(Surprised by Joy, 1955)
** Cf. 創世記 3:1ff

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