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世の終わりに備える:黙示録第2章

前回は、まだ世の終わりではない、あわててはいけない、というメッセージをお話ししました。

そのときは、イエス様がマタイ24:7でおっしゃった御言葉を心に留めましょう、とお話ししましたね。この御言葉です。

戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない

ところが、そうイエス様がおっしゃったにもかかわらず、あわてて、世の終わりが来た、と早とちりしてしまった人々が、クリスチャンの歴史には、大勢いるのです。残念なことですね。

今日はそれをまず概観して行きましょう。

モンタノス(2世紀)

すでに2世紀に、あわててしまった人がいました。モンタノスという人は、キリストが西暦150年にフリュギア(今のトルコ)に再臨する、と説きましたが、それは起きませんでした。彼を信奉するグループはモンタノス派と呼ばれて、教会は分裂の苦しみを経験しました。

中世の人々(11世紀)

中世ヨーロッパの人々の間では、西暦33年のキリストの十字架と復活からちょうど1000年が経過した1033年に世界が終わる、との説が広がりました。このため、社会に厭世感が蔓延しましたが、世界は終わりませんでした

ミュンスター再洗礼派(16世紀)

ドイツでは、幼児洗礼を否定し、回心した成人に洗礼をもういちど施すべきだと信じる再洗礼派の一部の人たちが、1532年に世界は終わった、と宣言しました。そして、ミュンスターの地方政府を武力で掌握し、12人の預言者を立てて、恐怖政治を行いました。しかし、世界は終わらず、周辺の領主が派遣した軍隊によって鎮圧されました。この事件は「ミュンスター千年王国の惨劇」として記憶されています。武力を使うことの誤りを経験したことから、再洗礼派の中からは、絶対平和主義と兵役拒否を唱えるアーミュッシュやフッター派が生まれ、おもにアメリカで独自のコミュニティーを築いています。

ウイリアム・ミラー(19世紀)

アメリカの伝道者のウイリアム・ミラーは、キリストが1843年に再臨すると説きました。多くのクリスチャンが期待をもってその時を待ちましたが、再臨は起こりませんでした。このため、計算が間違っていたとして、1844年に修正しましたが、それでも起こらず、「大失望」と呼ばれる無力感を社会に招く結果となりました。

エレン・G・ホワイト(19世紀)

ウイリアム・ミラーの預言が外れて「大失望」が起きている中で、女性伝道者のエレン・G・ホワイトは、「キリストは1843年に『目に見えないかたち』で天の聖所に再臨した。地上に再臨しなかったのは、教会が間違った安息日を守っているためだ。正しい安息日である土曜日に礼拝を戻すべきだ」と説いて、セブンスデーアドベンチスト派をはじめました。ですから、このグループは、土曜日に礼拝を守っています。

チャールズ・ラッセル(20世紀)

セブンスデーアドベンチストに出入りしていたチャールズ・ラッセルは、クリスチャンは1914年に携挙される、霊魂は不滅ではない、地獄は存在しない、キリストも聖霊も神ではない、三位一体は間違い、救われるのは14万4千人だけ、という新しい教えを説いて、エホバの証人をはじめました。しかし、1914年に携挙が起きなかったため、世の終わりを1925年、さらに1975年と修正しましたが、それでも何も起きませんでした。ラッセルの時代には、エホバの証人は十字架を用い、クリスマスや誕生日も祝っていましたが、後継者のラザフォードの時代になって、十字架・クリスマス・誕生日・輸血を禁止し、今日に至っています。

パット・ロバートソン(20世紀)

テレビ伝道者のパット・ロバートソンは、1982年に核戦争が起こり、人類は絶滅するが、クリスチャンは直前に携挙される、と説きました。しかし、携挙も核戦争も起きませんでした

タミ宣教会(20世紀)

韓国のタミ宣教会は、1992年10月28日にクリスチャンは携挙される、と説きました。その日、タミ宣教会に集まった人々の模様をテレビが中継しましたが、時間を過ぎても、携挙は起こりませんでした。そして、怒った信者たちが座布団を牧師に投げつける姿が、テレビで世界に放映されました。

ハロルド・キャンピング(21世紀)

ラジオ牧師のハロルド・キャンピングは、2011年5月21日にキリストが再臨し、10月21日に世界が滅びる、と説きましたが、それは起こりませんでした。責任を取って彼は牧師を辞任し、2013年に逝去しました。

あわてないで!

このように、クリスチャンの歴史の中で、世の終わりが来た!と、あわててしまった人たちがいたわけですが、いま、このコロナ禍による社会と経済の閉塞感の中で、やっぱり「世の終わりが来た!」と、あわててしまっている人が見られます。

このような時にこそ、わたしたちはマタイ24:36のイエス様の御言葉をしっかり握りしめましょう。このような言葉です。

その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。

偽キリストにも気をつけて!

「その日、その時は、だれも知らない」というこの御言葉は、こう言い換えることもできます。

キリストの再臨の日、キリストの再臨の時は、だれも知らない。

そこで、もし「あなたにぜひ紹介したい先生がいます、この◯◯◯先生が再臨のキリストなんです」と紹介して来る人がいたら、すかさず腕時計を見て、日付と時刻を確認しましょう。そして、深呼吸して考えましょう。この人が言っていることは、つまり、今日・いま・この時刻にキリストが再臨したと言ってる、ということだよね?って。そうです。これは、明らかにマタイ24:36の御言葉に異反していますから、勘違いというレベルを超えて、偽預言者・偽キリスト・異端の教師です。

なので、決して落ち着いていてはいけません。すぐに全速力で走って逃げてください!

イエス様はどこで何をしているの?

さて、最後に黙示録2章を手短に見て行きましょう。

この終わりの時代に、イエス様は、どこにいて、何をしておられるのでしょうか?

黙示録2章では、イエス様は、右の手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方、と言われています。

七つの燭台というのは、七つの教会のことですね。これは、諸教会を意味しています。イエス様は、いま、諸教会のあいだに、そして、諸教会のなかに、おられるのです。

七つの星というのは、イエス様が七つの教会に送るメッセージのことです。そして、メッセージを携えて行くのがメッセンジャーですが、ギリシャ語でメッセンジャーはアンゲロス(伝令あるいは天使)という言葉になります。

つまり、イエス様は、いま、諸教会のあいだに、そして、諸教会のなかにおられて、諸教会にメッセージを送っておられるのです。

そして、黙示録2章には、イエス様が7つの教会にあてたメッセージのうちの4つが記されています。

それを順番に見て行きましょう。

エフェソの教会へのメッセージ

この教会にイエス様は「はじめの愛に立ち返れ」と勧告しておられます。

そして、はじめの愛に立ち返った者には、報いとして「命の木の実」が約束されています。

天のエルサレムの中央を流れる川の両岸には、命の木が生えていて、年に12回「命の実」をみのらせ、その葉はあらゆる病を癒す力がある、と黙示録22:2で言われています。命の実とは、わたしたちにあたえられる永遠の命、そして、ゆたかな命を意味しています。

スミルナの教会へのメッセージ

イエス様はこの教会には「死に至るまで忠実であれ」と勧告しておられます。

当時の状況で言うと、それは、ローマ帝国によるクリスチャンへの迫害を耐え忍び、殉教を覚悟しなさい、ということですが、今日のわたしたちにとっては、新型コロナウイルス感染症によって死ぬようなことがあるとしても、恐れてはいけない、耐え忍びなさい、ということになるでしょう。

そして、死に至るまで忠実である者には、報いとして「命の冠」が約束されています。

ヤコブ1:12を見ると、命の冠は、最後まで忍耐した者にあたえられる勝利の栄冠であり、わたしたちが永遠の命にあずかることを意味しています。

ペルガモンの教会へのメッセージ

この教会には「異端の教えから離れよ」とイエス様は勧告しておられます。

何年何月何日に再臨が起きる・携挙が起きる・世界が終わる、と断定する教えは、広い意味での異端の教えに含まれます。また、◯◯◯先生は再臨のキリストです、と説く教えは、議論の余地なく異端ですので、惑わされないようにしましょう。

異端の教えから離れる者には、報いとして「白い小石」が約束されています。

白い小石とは、大祭司のエポデ(胸当て)の中に入っているウリム(白い小石=肯定)とトンミム(黒い石=否定)という二つ石のうちのウリムのほうを指しています。レビ8:8に記されています。大祭司は、祈って物事を決めるときに、胸当てに手を入れて、白い小石を引けば、それは「神による全面的な肯定」を、黒い小石を引けば、それは「神による全面的な否定」を示す、と受け取りました。

神から白い小石をあたえられるとは、わたしたちの存在が、神によって全面的に肯定される、という意味です。現代で言うと、神からの巨大な「いいねボタン」を押してもらうようなことでしょうか。

ティアティラの教会へのメッセージ

イエス様はこの教会には「偽預言者から離れよ」と勧告しておられます。

何年何月何日に携挙が起きる、と預言して、それが外れた場合、その人は偽預言者という扱いになってしまいます。そういう偽預言者から、あなたは離れなさい、と勧告されています。

偽預言者から離れる者には、報いとして「明けの明星」が約束されています。

黙示録22:16を見ると、明けの明星とはイエス・キリストご自身を指していることがわかります。

ほんとうにすばらしいことに、わたしたちには、イエス・キリストご自身のすべてが、残らず全部あたえられるのです。わたしたちには、そのような輝かしい希望の約束があたえられているのですから、「終わりの時代」を、不安と失望のときではなく、期待と希望のときとして、前向きにとらえて行きましょう。

それが、どんなに輝かしい希望であるか、わたしたちには、十分に想像できないかもしれませんが。。。黙示録19:6-8は、世の終わりの終局の出来事を「小羊と花嫁なる教会の婚姻」と表現しています。

なので、想像力をふくらませて、世界でいちばんすばらしい結婚式を思い浮かべてみてください。。。そして、わたしたちの将来には、その何千倍・何万倍も、すばらしい出来事が待っていることを、ぜひ信じてください。



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