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獄中の聖パウロを思う火星旅行

コロナ禍に対応した在宅勤務を続けている。朝8時から午後5時半まで一室にこもって作業するルーチン。早くも外を歩き回りたくなってきた。さらに一年、二年とこれが続いたら、精神的にどういうふうに参ってしまうのか、あれこれ想像してしまう。

二年間? 持って行きようのない鬱憤を晴らすプロテストの表現として、床屋に通えないことを口実に、髪の毛伸ばし放題、ひげ伸ばし放題で最長二年過ごす、とか。成人男性は一年に髪が12センチ伸びるそうだから、「在宅明け」には今より24センチ伸びている計算。肩に届くぐらいだ。それを、束ねる? 三つ編みにする? 昔のアメリカ先住民(インディアン)の写真を見ると、男性が三つ編みにしている。まさかねー。

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ひげは、髪より伸びるスピードが若干速いみたいで、1年で15センチとのこと。2年で30センチ。モーセとかサンタクロース並みの長さだ。まあ、コロナ禍中の保健衛生的には、ひげは好ましくないか。

二年のお籠り、というと、火星への有人宇宙飛行の往復のようなものだ。狭い船内に閉じ込められて、赤い不毛の星に着いたら、また一年かけて戻らなければならない。二年間、地球からの完全な隔離。想像を絶する。

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きっかり二年間、獄中にあったのは、聖パウロだ。イエス・キリストの使徒であった彼は、ローマで皇帝の裁判所に出廷する前の二年間、自宅軟禁に近い形で「獄中」にあった。番兵の監視下にはあったものの、パウロの教えを乞う人たちが自由に出入りしていたらしいから、いわゆる獄中というイメージとは少し違うかも。

パソコンが無い時代、パウロは訪れて来る人たちに対面で福音を語ると共に、パピルスを使って手紙を書いた。といってもパウロが筆をとったのではなく、口述する内容を、弟子に書き取らせたらしい。口述筆記というやつだ。秘書付きの自宅軟禁というわけだが、現代のわれわれは秘書の代わりにノートパソコン、パピルスの代わりにICTツールを与えられている。閉じ込められた環境で、何を書けるか、という課題は、われわれもパウロも、基本的に同じかも。

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獄中でパウロが書いたとされるのが、新約聖書に収められた27の文書のうちのエフェソの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙、フィレモンへの手紙の4つだ。まとめて「獄中書簡」と呼ばれる。

それらを読むと目につくのが、「いつも喜んでいなさい」「たえず祈りなさい」「すべてのことに感謝しなさい」というフレーズ。人生願ったりかなったりのコースで行っている時は、言いやすい言葉だが、パウロはこれを二年間の獄中で書いている。足が鎖でつながれている状況で言っている「喜べ」だ。普通ではない。

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さらに目につくのが、やたらとスケールの大きな宇宙観をパウロがかたっていることだ。いわく、世界のすべてはキリストによって創造された。いわく、キリストは宇宙の創造者、保持者、統治者だ。いわく、この瞬間、すべてのものは、キリストによって治められている。で、かくもスケールの大きなキリストをかしらとする「からだ」であるのが、クリスチャンなのだ、という。これは、いわゆる宇宙的キリスト論、というやつだ。二年間、一歩も自宅軟禁から出られない中、パウロは、宇宙のすみずみまでイマジネーションの翼を広げていた。やはり普通ではない。

パウロ自身が宇宙の果てまで飛んで行けたわけではない。獄中に閉じ込められているんだから。だが、彼が主と仰ぐキリストは、宇宙の創造主として、宇宙のすみずみまで到達している。その手でもって宇宙をつかみ、コントロールしている。キリストの手は、かしらであるキリストの意のままに、自由に動いている。それを妨げるものが何もない。神だからねー。で、獄中にいるパウロは、その手の動きに対する傍観者では決してない。だって、パウロもクリスチャンも、そのキリストの「からだ」である、と言うんだから。だから、パウロは獄中にいながらにして、キリストと結ばれ、キリストの命にあずかり、キリストの意のままに動かされながら、キリストの手が宇宙を動かすありさまを、目の前で見ていることになるわけなのだ。

この神のロジックの行きつくところは、もし、自分は、宇宙をつかんでいるキリストと結ばれて一体だ、という意識を持つことができさえすれば、たとえ、この宇宙でどんなことが起きようとも、自己から疎外されることがない。だって、自己はキリストと一体で、そのキリストの手が宇宙を動かしているんだから。そして、キリストは自分を傷つけることがない、なぜなら、自分はキリストの「からだ」なのだから。

キリストは御自身を否むことができないからである。
テモテへの第二の手紙2章13節

問題は、この普通ではないことを、信じ切ることができるかどうか、だよなー。この普通ではないマインドを持って、最悪二年に及ぶかもしれない社会的隔離をサバイバルできるかどうか。これは、二年間の火星旅行にも比すべき実験であることは間違いない。

現実に存在するということは、さまざまな関係にさらされながら、宇宙の只中におかれていることである。教会は、キリストのからだとして、キリストが在す上なる「諸々の天」から、人間の生活空間であるこの地上にまで、身を伸ばしている。人間は、教会の中に受け入れられているが、まだこの宇宙のなかに生きており、その諸々の霊力の支配にさらされている。しかし、人間は、以前は教会という場所の外で、なんの施すすべもなく、そうした諸々の霊力の手に渡されていたのに、いまやかれらを相手に闘っていくことが可能な者とされているのである。
ハンス・コンツェルマン「エペソへの手紙 緒論」
『NTD新約聖書註解8 パウロ小書簡』pp.150-151.

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