救世軍による悪魔島廃止事業
出典:
The History of The Salvation Army, vol.vi, pp.110-116.
フランス政府は1848年に奴隷制度を廃止しましたが、その結果、仏領植民地は一夜にしてその労働力の大部分を喪失してしまいました。この穴埋めをするために、フランス政府は本国の既決囚の中から、囚人を植民地に移送することにしました。1852年までに二千人以上の囚人が仏領ギアナに船で送られました。1938年の法改正で、囚人移送は廃止される予定でしたが、第二次世界大戦の勃発によって、実際の廃止は1946年まで延期されました。1946年の時点で、七千人もの既決囚が「悪魔島」に居住していました。
当時の人々は囚人植民地を「悪魔島」と呼びました。本来の悪魔島は、囚人の入植先である三つの島「イルドサル諸島」の中のひとつの呼称であり、仏領ギアナのコウロウ川の河口に位置していました。最初悪魔島は、ハンセン氏病に罹患した囚人を隔離するために使われていましたが、後に政治犯を思想転向させる目的に使用されました。ドレフュス事件で逮捕されたユダヤ系仏軍将校アルフレッド・ドレフュス大尉が1895年4月に、最初の政治犯として悪魔島に連れて来られました。
1928年に、救世軍フランス司令官アルビン・ペロン中将は、悪魔島で救世軍の働きを開始できるかどうか可能性を探るために、救世軍士官シャルル・ペン監軍を派遣しました。ペン監軍の調査により、およそ九千人の男が四つの集団に分かれて生活していることが判明しました。
最大の集団は、殺人や強盗殺人を犯して重労働刑に服役している男たちであり、「トランスポルテ」と呼ばれていました。
第二の集団は犯罪常習者であり、当局から矯正不可能と判断され、サンジャン・ドマロニの特別収容所で終身刑に服している男たちで、「レレゲ」と呼ばれていました。
第三の集団は、刑期を終了して刑務所から釈放されたものの、「二重刑期法」の規定のために、植民地に抑留されている男たちであり、「リベレ」と呼ばれていました。「二重刑期法」とは、七年未満の服役囚は刑期終了後に、刑期と同じ年数をさらに引き続き植民地で過ごさなければならないとする法律です。七年以上の長期刑の囚人は、釈放後も一生植民地から出ることが出来ませんでした。
第四の集団は、悪魔島に住む少数の政治犯で、模範囚として五年間過ごせば、釈放されてカイエンヌに移住する許可が与えられました。
救世軍士官シャルル・ペン監軍は植民地当局の好意により植民地全体を視察し、現地の行政当局に対して以下のような将来計画を提案しました。
こうして提案された事業は、包括的かつ明快なものであったので、大きな喜びをもって迎えられ、現地の行政当局によって承諾されました。フランスへの帰途、ペン監軍は囚人植民地改良事業の詳細な計画を船中で書き上げ、ルアーブル港到着時には完成していました。計画は実行に移され、ペン監軍は 1933年に仏領ギアナを訪れて、実現したビジョンを自分の目で見ることが出来ました。
1929年7月3日に、救世軍フランス軍国司令官アルビン・ペロン中将は、ペン監軍が作成した事業計画書をフランス植民地省に提出し、救世軍が囚人植民地での働きを始める許可を申請しました。申請の承諾には時間を要し、1933年2月8日になって、ようやく植民地大臣から許可を得ることが出来ました。パリの救世軍本営に担当部署が新設され、三つの目標を実行しました。
悪魔島の状態について検討するために、政府と慈善団体の代表で構成する諮問委員会を設置する。
囚人植民地救済事業の必要性について、世論を喚起する。
必要な財政的資源を確保する。
1933年の中頃、七人の救世軍士官が選抜され、携行する物資が準備され、ソルボンヌで大会衆を前に「壮行会」が開催され、さらに、救世軍サル中央小隊で献身式が行われて、仏領ギアナの地に掲げるための「救世軍旗」が、七人の救世軍士官に手渡されました。
七人が乗船した「ラメゾン・ド・フランス号」は遅滞なく到着し、カイエンヌに釈放者対象の宿泊施設と工房が開設され、同様の施設がサン・ロレンにも開設されました。農場を開設するためにモンジョリで土地を借り、また、すべての刑務所と収容所を救世軍士官が訪問して、福音伝道集会を行う手はずが整えられました。
次に、「二重刑期」を終了した「リベルテ」(釈放者)を、どのようにフランス本国へ帰還させるか、具体的方法が検討されました。釈放者一人あたりの渡航費用と生活費用の総合計額は、当時の貨幣価値でおよそ二千フランかかりました。そこで、資金計画が立案され、援助を与えるに値すると判断された釈放者に対して、救世軍の宿泊施設でベッドと食事を無料で提供し、その見返りとして工房や農場で労働することを求めました。また、釈放者が個人的支出に使うために、お小遣いを支給しました。さらに、一人ずつに毎月末に40フラン相当のクーポン券を支給し、釈放者はこれを現金と交換して使うことが出来ましたし、クーポン券を20枚集めれば、フランス行き客船の三等乗船券と交換することが出来ました。一方、乱暴を働いたり、信頼を裏切ったり、飲酒したりした釈放者は、宿泊施設から退去させられました。悪魔島では2フラン半払えば「タフィア」という酒を一リットル買うことが出来、植民地における災いの元となっていました。
シャルル・ペン監軍は1933年から1953年まで囚人植民地救済事業の責任者を務めました。こうした実験的試みの例に漏れず、事業は多くの困難に直面しました。働きを担った救世軍士官に、もし神を信じる気高い信仰と、托鉢修道士のような献身的精神がなかったならば、とっくにこの難事業から逃げ出していたに違いありません。自分の命の危険を顧みずに囚人の中に入って行く救世軍士官の姿を見て、刑務所の看守たちは恐怖の念を抱きました。救世軍士官は看守の手助けをしようと努力しましたが、その看守自身に欺かれることが度々ありました。刑務所当局は救世軍士官の奉仕の動機に疑念を抱き、救世軍の活動を密かに監視しました。だれからも感謝されない仕事をするために、わざわざ熱帯の囚人入植地に自ら進んでやって来る救世軍士官を、理解することが出来なかったのです。そんなことをするのは、神の「気高い馬鹿者たち」である救世軍士官ぐらいのものでした。以下の救世軍士官が、悪魔島での奉仕を行いました。
1933年〜1947年 ハウスドルフ大尉夫妻
1933年〜1946年 シャスタグニエ大尉夫妻
1933年〜1938年 クロッペンシュタイン中尉
1935年〜1938年 クロッペンシュタイン中尉夫人
1933年〜1936年 コルニリョン中尉
1935年〜1949年 パルパン大尉
1946年〜1949年 パルパン大尉夫人
1936年〜1939年 ペルス大尉
1938年〜1948年 ソーニ大尉
1947年〜1948年 ソーニ大尉夫人
1946年〜1950年 ワイリー少佐夫妻
1949年〜1952年 デュラン大尉夫妻
フランス本国への帰還者67人を乗せた最初の船が、1936年2月にサンナザイレに到着しました。北アフリカ出身者たちは、すぐ自分の故郷に戻り、家族に溶け込むことが出来ましたが、ヨーロッパ出身者は多くの問題を持っていました。それでも、帰還事業は加速され、毎月のように囚人植民地からの帰還者がフランス本国に到着するようになりました。1938年6月17日に、フランス政府首相はフランス共和国大統領に対して報告書を提出し、次のように述べました。
フランス共和国議会はこの報告書に同意しました。
囚人植民地の廃止は、もっと早くに実現するはずでしたが、第二次世界大戦の勃発によって遅延しました。大戦中になお、804人の釈放者が救世軍の支援によってフランス本国に帰還しました。しかし、戦争は植民地経済を崩壊させました。フランスの首都で政治的対立が強まると、その影響が仏領ギアナを含むすべての植民地に影響しました。パリの救世軍本営と、囚人植民地の救世軍との間の通信も断たれました。本国からの監督がなくなった刑務所当局によって、一部の囚人は酷い取扱いを受け、一部の救世軍士官も不当な扱いを受けました。ひとりの救世軍士官は、妻と、八歳と七歳と生後六か月の三人の子どもたちと共に、囚人植民地当局から追放令を受けました。「国家に対する危険人物である」というのが理由でした。細心の注意を払って行って来た十数年にも及ぶ働きが、すべて崩壊するように思われる瞬間でした。しかし、第二次世界大戦が終結すると、まだ残っている釈放者を本国へ帰還させるために、フランス司法省が初めて特別資金を拠出し、救世軍に対して帰還事業が委嘱されました。
1953年8月に、釈放者の最後の一人が救世軍の支援によって、サンマテオ号で本国に帰還しました。囚人植民地は、もはや存在しません。派遣されていた救世軍士官たちは、その任務を完了しました。囚人植民地救済事業を成し遂げることを可能にした「精神」を、アレクサンダー・パターソン卿の次の言葉が、よく表していると思われます。
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