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委ねられた名前を使う、ということ。

過去に、あるプロジェクトのために、代理人を立てたことがある。

代理人に就任する予定の人と面談し、打ち合わせを経て、自分に代わって案件を扱ってもらうための「委任契約書」を作成し、双方が署名し、ハンコをついて、依頼人と代理人の関係に入った。

おもしろいなあ、と思ったのは、ある重要な会合があって、本人である自分は都合がわるくて出席できないから、代理人が出席してくれた。その会合の記録を見ると、自分は不在だったのに、形式的には自分が出席したものとみなされていた。

ふつう、自分にかかわることは、自分の名前でもって、自分で全部やならくちゃいけない。自分のことは、自分でする、という自己責任が、世の中の大原則だから。

だけれども、自分の権限を他人に委ねることも、世の中では可能だ。そのようにして代理人に就任した者は、委ねられた「名前」を使い、その人のようになって言葉を発し、行為する。そして、それは、その「名前」の人がおこなったものとして、受け止められ、効力を持つ。

今日の聖書の言葉。

だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。
マタイによる福音書 28:19-20 新共同訳

自分の幼稚園はカトリック系だったから、お祈りのとき、むすびのことばとして「父と子と聖霊の御名によって、アーメン」と唱えながら、ゆびで額と胸と左肩と右肩に十字を切るようにおそわった。

だけれど、そこは、幼稚園児だから、御名(みな)によって、と言うべきところを、南(みなみ)によって、と間違って唱えていた。

父なる神と、子なる神と、聖霊なる神がいて、その南のほうに、なんだか日のあたる、ぽかぽかした、気持ちの良い場所があるのかしら、と幼い心でイメージしていた。

ありゃー。。。間違いだったわ、と気づいたのは、小学生になってからのこと。。。

そして、それだけじゃなく、「御名によって」ということは、神は「神の名前」を自分に委ねてくれているということ。。。つまりそれは、神は、神の代理人として行動する権限を自分に委任しているということであって、「おまえは、神の名を使うのである以上、善良かつ忠実な代理人として、委ねられた権限を行使しろよ」と言われているんだ、と理解できたのは、ごく最近のことだ。

自分は、ただの人間にすぎないのに。。。失敗だらけ、黒歴史だらけの、罪びとなのに。。。そんな自分を、ゆるしてくれたばかりか、なんと、神は「神の名前」を自分に委ねてくれた。

父なる神の権威。子なる神の権威。聖霊なる神の権威。その権威が、自分のような者に委任されている。だから「神の名前」を唱えて祈るとき、自分は、神の権限を使って、神の代理人として、言葉を発し、行為し、それらはすべて、神ご自身がおこなったものとみなされ、効力を発するという *。。。

。。。なんて恐ろしいことだろう。

幼稚園児だった自分は、無邪気に「神の名前」を唱えて、祈っていたけれど、これって、宇宙をひっくり返すことができるほどの力が、神から幼子に委ねられている、ってこどだよね。。。考えれば、考えるほど、ゾッとする。。。

「父と子と聖霊の名によって祈ります、アーメン」と言うとき、自分は、委ねられている事柄の重大さ、深刻さを忘れて、ぱぱっ、と唱えて、終わってしまうことが多い。

だけれども、ときどき、委ねられている事柄の重大さ、深刻さを、ふと思い出して、足が震えるような気持ちで、祈ることもある。

だって、そうでしょ? 「神の名前」によって祈ったら、宇宙は、それを神からのものとして受け取り、効力が発生する、というわけなんだから。

だから、いつも、緊張感をもって祈らなければならないよな、と思う。

註)
*  Cf. マタイ10:1, ヨハネ14:13-14, 15:16, ヨハネ一3:22


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