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怖いのに、目が離せない

生ける神に、突然に出会ってしまったときの、慄然とした感覚を、ドイツの神学者 ルドルフ・オットーは「ヌミノーゼ」と呼んだ。聖なる畏怖、と言ったら良いだろうか。

それは、ひとを戦慄させると同時に、ひとを魅入らせてしまうのだ。。。怖いのに、永遠に見続けていたいと思うほどに。。。永遠に見続けていたら、死んでしまうよね。。。

なので、神を見た人は、ほんとに死んでしまうらしい。。。綱島梁川という明治時代の文芸評論家が、神を見る体験を何度かしていて、彼はそれを「見神」と表現したんだけど、魅入られたみたいに34歳の若さで、結核で死んでしまった。こわい。。。

戦慄させ、魅入らされる、というヌミノーゼの感覚を、みごとに文学で表現したのが C.S.ルイスの『顔を持つまで~王女プシケーと姉オリュアルの愛の神話』だと思う。神の顔を見るって、いったいどんな感じなの?と思ってしまうけれど、プシケーが魔の山の奥で見神する場面は、うーん、なるほど、こういう感じに違いないよね、と唸ってしまうほど迫真なのだ。

見神したプシケーは、完全に、あっち側の世界のひとになっちゃうんだけど、だから、姉のオリュアルは神に対して激怒するんだよね。オリュアルにとって、かわいい妹プシケーは、もう戻って来ない。死んだも同然の存在になってしまったんだから。

旧約聖書に、神を見たものは必ず死ぬ、と書いてあるのは、そういうことなんだろうなあ、と思う。

でも、死なないで生き続けた人も、聖書には出て来る。預言者イザヤがそうだ。彼は、自分の国が破滅のコースへとひた走っていた暗い時代に、神を見てしまった人だ。

今日の聖書の言葉。

そのとき、わたしは主の御声を聞いた。
「誰を遣わすべきか。 誰が我々に代わって行くだろうか。」
わたしは言った。
 「わたしがここにおります。 わたしを遣わしてください。」
イザヤ書 6:8 新共同訳

エルサレムの神殿に詣でたイザヤは、宮の中に満ちている神の臨在と、その威光の輝きを、目撃してしまった。神を見てしまったのだ。こうして、イザヤは、神につかまえられてしまった。カール・バルトや井上良雄の用語でいう「神によって徴発された」という感じ。

恐ろしくてしかたがないのに、覗き込みたくなってしまう。。。ひとたび覗き込むと、恐怖と歓喜に圧倒されて、永遠に目が離せなくなってしまう。。。それが、ヌミノーゼだ。くわばら、くわばら。。。

見神してしまったイザヤは、神の意のままに、ひきずりまわされる人生を送ることになる。彼は、神の言葉を託されて語る預言者となった。

さて、そういう前提をふまえた上で、われらの主イエス・キリストを見ると、イエスさまには、そういうヌミノーゼっぽさが、ぜんせん無い感じがするんだよねー。軽やかさを感じる。この感覚。不思議だ。

ふつうの人間だったら、その人間は神によって徴発され、神につかまえられてしまう。そういう経験をするわけだ。

けれど、イエス・キリストには、そういうふうな感じが、あまりしない。

なんだろう。。。メルヴィルの『白鯨』でエイハブ船長(人間)が白鯨(神)と恐怖の戦いをしなければならなかったという。。。まあ、これが、ふつうの人間にとっての神の経験であるのだろう、に対して、イエスさまはサーフボードに乗って巨大な波を軽々とすべっているイメージなんだよね。。。やはり、ふつうではないんだと思う。単なる神でもなく、単なる人でもない。神人なのだ。

これはね、やっぱり、永遠の神である御方が、小さな赤ん坊になって、ひとのかたちをとって、おいでになった、それがイエス・キリストだ、ということの証左なんではないだろうか、と自分は思っている。


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