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じっくり、しずかに、おちついて

人生で、いかに、びくびくしないで生きるか、というのが、自分の生涯のテーマのひとつだ。理想は、嵐の中のボートで眠っているイエスさま。ほんとうに、たいしたものだと思う。横になっている耳に、どうして水が入らなかったのか、嵐なのに。。。という不思議も感じる。

先週の日曜は、初代教会に聖霊がくだったことを想い起こして祈る「聖霊降臨祭」(ペンテコステ)だった。今日の聖書は、わたしたちが聖霊によって「おくびょう」から解放される可能性を言っている。

今日の聖書の言葉。

神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。
テモテへの手紙二 1:7 新共同訳

ここの「霊」(プネウマ)というのは、ホーリースピリット、古い英語の聖書では、ホーリーゴーストとも訳される、神の霊、聖霊のことだ。

キリスト教では、父なる神、子なる神(イエス・キリスト)、聖霊なる神という、三つのパースン(位格)が神のうちにあるけれど、三人の神々がいるわけではなく、ただひとりの神がいる、と信じられている。1+1+1=1という、人間の常識を超えたミステリー。いわゆる三位一体(トリニティ―)だ。

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聖霊は、世界のすべてを無からつくりだした創造主だ。その意味では、聖霊は、あらゆるものを超越する絶対的な超越者だということになる。ところが聖霊は、被造物に生命を与えるために、あらゆるもののうちに内在しているとも言われる。

超越と内在。この二つの属性は、本来なら両立しない、相矛盾した概念なんだけど、永遠に超越しつつ、万物に内在し、永遠に内在しつつ、万物を超越しているという、すごい存在なのが聖霊だ。まさに「神」としか言いようがない。

イエス・キリストは、わたしたちに聖霊を注いでくれた。その出来事を記念するのがペンテコステ、聖霊降臨祭だ。ヒッポの司教アウグスティヌスが自伝『告白』の中で、「ほんとに不思議だ。神よ、あなたは宇宙よりも大きい方なのに、わたしの小さな心のなかに住んでくださるとは!」(思い切りパラフレーズ訳)と感嘆したように、よく考えたら、これはスゴイことだ。

だって、軽々と全宇宙を超越する巨大な存在が、その部分ではなく、全量でもって、わたしたちの心のなかに住んでいてくれる、というのだから。

この「見えない事実」に目が開かれたら、わたしたちは感覚的に「おくびょう」から解放されるのではないだろうか。

なんだろうね。。。目の前の机の上に、突然、天井からヤモリが落ちてきたら、キャーキャー泣き叫ぶのが普通だろうけど。。。じっと落ち着いて、いや、おれの中にはゴジラがいるんだぜ、みたいな。。。で、背中のジッパーを開くと、体長50メートルのゴジラが出て来る、みたいな。。。

自分の背中にジッパーがあるわけではないが、もし「中の人」がゴジラだったら、自分もゴジラのようなパーソナリティになるにちがいない。本質が実体化して実相となるわけだからねー。

しかし、聖霊が、わたしたちたちの心のなかにおられるなら、そこから表れ出て来る実相は「力と愛と思慮分別」のはずだよ、と今日の聖書は言っている。どう見ても、そう言ってるとしか読み取れない。

聖霊は、思慮分別のあるお方だから、聖霊を心に宿す人は、おのずから言動が思慮分別に富むようになるはず。。。

軽挙妄動している人がいるとしたら、あなたの中に宿っている霊は、いったいどんな霊ですか?と問いたくなってしまうのは、こういうわけなのだ。自戒、自戒。。。


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