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軽やかな心!”自由な生き方”のヒント〜”自分次第意識”が外れると重くなる〜

あなたが、
”軽やかな心”で、
”自由”を感じながら、
生きていけますように。

まだ、そうでないなら、
この記事が、そうなるための
ヒントになりますように。

プロローグ

あなたは、
「自分」を生きていますか?

ある、女性がいました。
その女性は、いつも不安でした。
人を信じることが、できませんでした。

なぜって?

信じた結果、
悪いことが起きたら、
つらいからです。

どうにもできなくなって、
苦しいからです。

体も心も、重くなり、
そこから、抜け出せなくなるからです。

そこで、

最初から
「信じない」ことで、
自分を守っていました。

人を信じないことを、
ずっとやっていると、
何が起きるのでしょうか?

その答えは、
人それぞれ、
違うでしょう。

ある女性の場合、
「自分を信じること」が、
できなくなってしまいました。

〜〜〜

彼女が、
抱えていた課題。

誰かに何かを指摘されると、

無条件に、
「ああ、そうなのかな」
と思ってしまう。

ということです。

自分を、信じられない。

自分が、ないのです。

自分がない。自信を持てない。

結果的に、自分の人生を、
生きることができない。
今を、生きることができない。

では逆に、
自分を信じることができれば、
どうなるのでしょうか?

誰かに何かを指摘された時、
まずは相手の想い、気持ちを、
受け取りますよね。

その上で、自分の信念と、
照らし合わせる。

何が起きたのかを考え、
より良くなるには、
”どうすればいいのか”
その答えを出す。

そして、その指摘を、
思考停止で受け取るのではなく、
「自分を変えるべきところ」
と、
「このままでいいところ」
に、
分ける。

「このままでいいところ」に関しては、
自分を否定する必要はない。
指摘を、鵜呑みにする必要もない。

相手の気持ちを尊重しつつも、
自分の気持ちを大切にすればいい。

そして、
「自分を変えるべきところ」だけを、
「これから」に活かすために、
心に刻む。

その学びを、気付きを、
大切に、今後の人生を、生きていく。

自分があれば、
これができるのです。

〜〜〜

このお話は、
親でも他人でもなく”自分”を、
過去でも未来でもなく、”今”を、
生きるための、ヒントです。


心を全て明け渡すと不安だらけ

あなたはどのくらい、心を開いている?

もし、
「自分がない」状態で心を開いてしまったら、

不安だらけになります。

何かが起きた時に、
「自分次第」と思えないと、
つらいです。怖いです。苦しいです。

心を開いた結果、起きたことや、
自分の中に入ってきた人、言葉、概念によって、
居心地の悪さを感じる。

重いエネルギーを感じる。

そうなっていれば、心を明け渡すことはできないし、
明け渡さないことが、とても重要ですよね。

明け渡す前提ならシャッターを閉じるしかない

心を明け渡す前提なら、
そこに確固たる自分がいれば、
問題はありませんが。

そうでないなら、自分を守るために、
シャッターをピシャリと、閉じなければなりません。

シャッターを閉じて、自分を守ろうとしている。

本当は、シャッターに頼る必要がない自分自身を、
確立できれば、楽になります。
そんな自分を、育てていきたい。

しかし、その選択肢がなければ、
シャッターを下ろして、新たな出会いや気付き、
今までの自分にない考え方や、人々、言葉、概念から、
一定の距離を置く必要が出てくる。

シャッターを閉じると信じられない

シャッターを下ろすことで、自分を守ろうとする。

それが必要な時は、仕方がない。

しかしここで問題が一つ。

シャッターを下ろすことで、
世界を、信じられなくなる。

信じられるのは、相手の存在を感じるから。
シャッターが降りると、何も感じられない。
関係性が遮断されて、
悪いこともないが、いいこともなくなる。

そして、何も感じなくなると、

あることが、できなくなる。

信じられないと試すことができない

新しい何かと出会った時に、
それが良いか悪いかを、
私たちは”頭だけ”で判断しがちである。

特に、「今までの世界にないナニカ」
のことを、怖いと感じる傾向がある。

未知の世界=恐怖。

実際は、今までの認識の外ということは、
それによって”世界が広がる”ことが、
約束されているということ。

これが”ワクワク”になっている人の世界は、
どんどん広がっていく。

好奇心の赴くままに。
子供のように。
永遠のように。

広がり続ける世界を生きる。

こんな世界で、人は、

なんでも「やってみる」ことができる。

頭だけでは、わからないことが必ず、ある。

「やってみたからこそわかること」
が、必ず、あるのだ。

だから、
何かと新たに出会った時、
やってみることは、とても重要だ。

そして、「やってみる」ためには、
信じてみることが必要。

盲信ではない。
全てを思考停止して、
受け入れる、わけではない。

信じてみる。試してみる。
やってみて、経験して、
その感覚も含めて、
判断する。

これができる人の世界は、
どんどん広がっていく。

試せないと世界は広がらない

逆にいうと、試さないと、
やってみないと、世界が広がることはない。

もちろん、頭で考えて想像する世界の広がりは、
あるだろう。

それを否定しているわけではない。

しかし、やはり試すからこそ広がる世界は、

情報量が多いのである。

時には、言葉で表現できない感覚を得たり、
脳で捉えられない、不思議な体験をしたりもする。

この世界で、脳で捉えられる情報はほんの一部。

とすれば、やはりやってみて、
さまざまな感覚を通して得られる学びは、
非常に大きいと言えるだろう。

世界の広がり≒学び、成長

ここでいう「世界の広がり」

とほぼ同じ意味として、
「学び」や「成長」がある。

世界は変化し続けている。

変化し続けているこの世界で、
豊かに生きていくためには、
自分も変化し続けることが求められる。

よく言われていることだが、
現状維持は、退化なのだ。

進化し続ける意識を持って、
学び、気づき、成長し続け、
世界が広がり続けた時、
ようやく現状維持、
そして進化につながる、といえよう。

そのために、非常に重要な要素の一つが、
これからお伝えする内容だ。

心フルオープンでも不安にならない方法

心をフルオープンに、
そしてシャッターを閉めてしまうようなこともせず、
さまざまな出会いを取り入れ、やってみて、生かすことができれば、
どんどん世界は広がっていく。学び、気づき、成長できる。
しかしそこに、付き纏う不安や恐怖。

そのネガティブなエネルギーを外す方法、
そのひとつが”自分次第意識”である。

”自分次第意識”とは

この言葉は、さっき僕が思いついた。
ので、明確な定義などはないだろう。

ただ、この言葉にそれが必要かと言えば、
おそらく不要だ。
なぜなら言葉通りの意味だから。

つまり、
「全ては自分次第」
と思える意識である。

”自分次第意識”の確保=シャッターを開けられる

この「自分次第意識」を確保することができれば、
常に不安に陥る必要がなくなる。
もし、不安に陥ったとしても、
「自分次第!」と思た時から抜け出せるのだ。

言い方を変えれば、「シャッターを開ける」ことが、可能になる。

前述した通り、シャッターを閉めてしまった時、その対象との関係はなくなる。一方、開けることでその良いところも悪いところも含めて、関係が生まれる。

関係が生まれるからこそ、何かを学んだり、
気付いたり、世界が広がったり、するのだ。

”自分次第意識”なら、信じることができる

それだけではない。
自分次第意識なら、何が起きても自分次第。
だから、
信じることができる。

信じた結果、良い結果が得られなかったとしても、自分次第で変更できる。

信じた結果、良い結果が得られたとしたら、それを信じ続ければいい。

全ては、自分次第なのだ。

自分自身は自分でコントロールが可能。
だからこそ、原因を自分にした時、
自分次第で、その原因を変更し、
結果を変えることもできる。

やってみた結果、よかったら採用する

「自分次第意識」を確保しつつ、
まずやってみる。

やってみた結果、よかったら採用する。

自分の人生に取り入れてみる。

必要な時に、その経験や、考え方や、概念を、

発動する。

やってみた結果、嫌ならやめればいい

やってみて、違ったら、やめればいい。

それだけだ。

よく、「三日坊主はよくない」と耳にするが、

果たしてそうだろうか?

何事も、「やってみる」ことができることには、価値がある。やってみて、違うと思ったのなら、さっさとやめればいい。そして他のことを、他の方法を、他の目的を、また、やってみればいい。

もちろん、人は本能的に「変化を嫌う」=現状維持をしようとする働きをもつので、大きな変化を起こそうとすれば元に戻ろうとする働きも、大きくなる。

「やってみた結果、よかったな」

と思っているのなら、その本能の働きを学び、導くことができれば、

脱三日坊主は成功する。

これは話が逸れるので、またの機会に。

違う世界の答えを一つにしようとする問題

自分の中の矛盾に苦しむ。

あなたがもし、
こんな感覚を、持ちがちなら。

もしかしたら、
「違う世界の答え」を、
一つにしようとしている、
かもしれない。

例えば。
何か新たな経験を、学びを得て、
それによって今後の考え方や選択を変える場合。

今までの答えをどうするか?

という問題が出てくる。

この時、
「今までの答えは100%間違っている!」
みたいに考えるのは、結構大変。

なぜなら、この世は「白か黒!」みたいに
はっきりと境界線があるわけではなく、
黒と白が両端にあり、その間が
「グラデーション」みたいになっているからだ。

つまり、
「今までの選択も、こうこうこういうときはOK!」
とか、
「今までの考え方も、この部分は手放さなくていい」
などなど、

柔軟に、分けて、一つ一つ向き合って、再選択して、
混ぜて、融合させて、より良いものにしていきたいのだ。

例えば
「長さが10cm」
「重さが100g」
「量が1リットル」
などを、
比べることなんて、できないのに。

「10cmと100g、どっちがいい?」
とか、言われても、困るよね。

つまり、

「違う世界の答えは、それぞれ。だって、世界が違うから。」
ということだ。

複数の答えを同時にキープする

世界というのは絶妙に混ざりあったり、
変化したり、くっついたり、離れたり、
動いたり、捻れたり、している。

いろんな世界があり、
どこから見るか、それだけでも、
全く違って見えるのがこの世界。

シチュエーションも、
無限にあるわけで。

それぞれの世界に、
それぞれの答えがあることを、
受け入れよう。

それぞれの答えを、
持っておこう。

いつか使う時が来るかもしれないからね。

状況に応じて使い分ける

状況が変われば、
その中で有効な答えも、
当然変わる。

ある時は役立つ考えが、
ある時は邪魔だったり。

ずっと重荷に思っていたものに、
ある時、心からの感謝が溢れたり。

色々だ。

ちょうどいい時に、
ちょうどいい答えを、
使ってみよう。

違ったら、変えてみよう。

僕たちは、
どんな自分にも、
なれる。

そんな可能性を、
誰もが持っている。

道具で考えると・・・

道具で考えたら、
わかりやすいよね。

カッターも、ハサミも、包丁も、
それぞれの良さがある。

ある時は、これ。
ある時は、あれ。
ある時は、こっち。
みたいに、
使い分けるよね?

ミニマリストレベル10
とかならまだしも。

それぞれの道具を、
それぞれの状況で、
使い分ける。

そしてこれは、
考え方とか、
価値観とか、
答えも、
同じ。

自分次第意識を広げる

そうやって、色々取り入れながらも、
一つの明確な方向性、それは
「自分次第意識を広げる」こと。

ある男が言った。

「雨が降っても自分のせい」

お天気って、普通に考えれば、
自分のせいじゃないよね。

自分次第じゃないよね。

でも、そんな「お天気」すらも、

自分次第と、思えたら。

そこには、自由が、ある。

「究極の自由」を得る方法

長くなったこの記事も、いよいよ終わりを迎える。

この記事で、どのくらいのことが、

伝わったかは、正直わからない。

ご質問などがあればぜひ、
お願いしたい。

その上で、
最後のテーマは「究極の自由」だ。

この考え方は、
自分でもずっと疑い続けているが、
今のところ判例が見つからない。

つまり、

常に当てはまり、再現性がある、ということだ。

そうでないケースに心当たりがあれば、

ぜひ、お伝えいただきたい。


さて、結論からお伝えすると、

究極の自由=自己責任

今回の記事的に表現すれば、

この「自己責任」が、
=自分次第意識
なのである。

自己責任

と聞くと、

なんとなく自由じゃないイメージが、

あるかもしれない。

順番にご説明させていただく。

まず、

「自己責任にしなかった」場合。

自分以外の誰か、もしくは何かの、責任となる。

例えば今の悩みや、トラブルの原因が、

「どうしようもないこと」

すなわち、

この社会のせいとか、
この時代のせいとか、
両親のせいとか、
パートナーのせいとか、
職場のせいとか、
子どものせいとか、
環境のせいとか、
あいつのせい、

って感じ。

これらは全て、
「コントロールできないもの」
である。

人が悩む時、
共通点がある。

どうにもならない問題を、
どうにかしようとしてしまう。
という、共通点だ。

つまり、
悩みとは、
どうにもならないこと、
自分にできないことを、
やろうとしてしまった時、

いうまでもなく、できない。
できないから、苦しい。
悲しい、しんどい、痛い。

そして、ますます悩み続ける。

(もちろん、できなかったことができるようになることは素晴らしいが、論点がズレるのでここでは、その話は置いておく)

さて、ではどうすればいいのか?

「悩んでいる状況」に、あなたが今、いるなら、

「今自分ができること」に焦点を当てよう。

できることがあれば、小さくていいから、

実際にやってみよう。

やってみることができたら、
例えそれが小さな、僅かな、変化だったとしても、
「変化が起きた」ことには、変わりない。

そして変化が起きれば、
少なからず、状況が良くなる。

状況が良くなれば、
「いずれ解決できる」
という実感を、得られる。

時間と共に、よくなっていく状態。
に、入れる。

つまり、
「できないこと」
から
「できること」
に、
焦点を当てる対象を、
変化させることで、
進んでいくことができる。

これができないのが、

自分以外の誰か、もしくは何かの、責任とすること
なのである。

結果、自分にはどうにもできない
=自由じゃない

自己責任と捉えられた場合、
全ては自分の責任、
全ては自分次第
=自分次第でどうにでもなる
=自由

つまり究極の自由とは、
全てが自分に由る状態
=自由

なのではないか。

という、提案だ。

「雨が降ったこと」が、
仕方なければ、
不自由だが、

「雨が降ったこと」すらも、
なんらかの原因が、
自分にあったのなら。

という観点で、向き合い、考え、

その学びや気付きを、
活かしていくことができたなら、
これって結構、自由。だよね。
自分次第だから。


何が起きても、
自己責任。

自分が変化し、
世界を変化させる。

という生き方ができれば、
それは「究極の自由」と、
表現できるのではないだろうか。


まあ、そもそもいつ誰が
「雨」を「悪いこと」
って、決めたのか、知らないけど。

あらゆる感情の奥には、
固定概念がある。

この話はまた機会があれば。

ここまで、
長文をご覧いただきありがとう。

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