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イラストレーター/デザイナー/フォーク音楽家 イサジツトムに会った _ 1

 ゆっくり話を聞きたいと思っていた人がいた。さりげない振る舞いや、ふと発する言葉に惹かれた。自分の場所で生きているように見えた。どんな来し方をしてきたのだろう。覗きたくなった。そんな人たちの探訪記「あの人を訪ねる」。
 第一回には、イサジツトムさんに登場していただきました。


 2014年のこと、北青山で開かれたイサジツトムの個展のオープニングパーティに出向いた。一通り絵を見るうちに、イサジさんが加わるバンド、クール・ナガサキ&ハイビスカスの演奏が始まった。ウクレレを奏でながら、苦味とひねりを加えたユーモアたっぷりの歌を、彼は飄々と歌っていた。それからしばらくして、彼のソロ名義によるアルバムを聞いた。こんどの歌は、フクシマの原発事故への怒りと、失われていく故郷への想いが溢れるものだった。彼の中で何があったんだろう?と思った。
 イサジツトムは、1955年福島県いわき市の生まれ。大学卒業後からイラストレーターとして活動を始め、幾多の雑誌に作品を発表する傍ら、"中央線フォーク最後の新人"と自称して、シンガー・ソングライターとしても活発に活動している。ソロ・アルバムもすでに4作を数える。絵と歌に生きているアーチストだ。
 最近のこと、あるライブ会場でチューハイを飲みながら、イサジさんとこんな話をした。「あのね大江田さん、これまでのオレの洗いざらいを話したいんだよ。オレの絵も見てるし、歌も聞いているでしょ。どうかな?」。「もちろんだよ」と答えた。彼のユーモアとシリアス、それがどんなふうに絵と歌に結実しているのか、ボクこそ前々から知りたかったし、願ってもない提案だった。こうしてインタビューが始まった。

イサジツトム〜その1 絵のことばかりを考えていた

小学校高学年、ダリの絵にショックを受けた

大江田  絵の話を先にしましょう。いつ頃から絵を描き始めたの?
イサジ  小学校に入る前の幼稚園の時期のこと、鉛筆と紙を渡すと、ただひたすら絵を描いていた子供だったらしい。覚えていないんだけど。ある時、母親がトンボの絵を描いてくれた。それを見て、「この絵は違うよ、トンボの尻尾の先は二つに分かれているんだよ」って言ったんだって。何という子供なんだろうって、母親がびっくりしたと聞いた。一瞬にして物を写すクロッキーっていう訓練方法があるんだけれど、オレは子供の頃からそれをやっていたみたいだね。
 はっきり記憶しているのは、戦艦の絵。小学校低学年のころ、プラモデル屋さんに行くと、手の届かない高いところに、戦艦大和の絵が書かれた箱がおいてある。あの頃、900円くらいだった。親の給料が2万ぐらいの時だから、相当に高価なもんです。その戦艦大和の絵が大好きだった。それでね、オレが描くのは、大和のような大きな戦艦が、大砲をぶっ放して悪いアメリカをやっつけてる絵、そればっかりなんだ。学校の先生が心配して、親に相談したらしい。「いつもこんな戦争の絵ばっかり書いてますけど。大丈夫ですか、お宅のお子さんは?」って(笑)。
大江田  プラモデルの箱の表紙を見ただけじゃ、そこまで描けないよね。漫画雑誌を見たりしてた?
イサジ  それはあった。医者の息子か、銀行の支店長の息子の家だな。お金持ちの家で、そこに行くとなんでもあった(笑)。鈴木君っていう医者の息子の家に行くと、ダリの画集があった。これには、ものすごくショックを受けた。小学校高学年の頃だった。それまで自分が知っている絵と違うし、何なんだろう、本物っぽいし。
 中学になると佐藤君の家には、ステレオもあった。彼の家で始めて、ジリオラ・チンクェッティの「雨」を聴くんですよ。昔のシングル盤には、カタカナで歌詞が書いてあったんで、それを見て覚えた。今でもインチキで歌えるけどね、ラ・ピオージャ〜(と、歌い出す)。そのB面がマッシーモ・ラニエリっている国民歌謡歌手の「愛の詩」が入っていて、「イヨ・カント〜」(と、さらに歌い出す)。「もう一回、聴かせて」って何度も頼んで、歌詞を覚えるまで聞いたんだ。今でも頭から離れないの。
大江田  今の自分につながっている記憶というと、なんだろう。
イサジ  あがり症のくせに、出たがりってところ(笑)。小学1年の時に、学校でお芝居をやった。オレは、七人の小人に登場するおじいさんの役。歌川なおこさんっていう憧れの女の子が同級生にいたのね、彼女がお姫様の役をやった。オレはそれが嬉しくて嬉しくて。オレがやった役のことなど、なにも覚えていない。でも彼女の名前は覚えている。あれはオレの初恋なのかもしれない、幼児期のヰタ・セクスアリスというか。
大江田  早いね。
イサジ  そう、早いの。彼女に会って顔を見て、話すのが嬉しくてしょうがない。オンナが好きで好きでしょうがない。オレは男兄弟で兄が1人だけ。廻りに男しかいなんだよ。
大江田  へえ。

私は幸せ者だ① in 横須賀2022


中学、高校と楽しかった美術部

イサジ   学校の絵の展覧会で、いつも金紙のヤツがいて、オレはいつも銀紙だった。彼は、ものすごく上手かった。オレが描いているのも、なかなかイケてるなと思うんだけど、そいつの見るともう話になんないくらい上手い。デッサン力がすごいし、完成度もある。大人の絵っていうかな。すごい絵は、違うよね。これがオレの最初の挫折。小学校の4年か5年の時だったな。
 中学校に入ったら、美術の先生が武蔵野美術大学出身だった。塩田先生という男の先生。秋吉久美子が美術部に入ってたから、オレも入ろうと思った。部に入るためには、デッサンと作品を一点ずつ出せという試験があって、オレは適当に書いて出した。そしたら先生に、いや、イサジはこんなもんじゃないって言われた。授業で描いているオレの絵を見てるから。あらら、バレちゃった、ちゃんとしなきゃと思った(笑)。美術部には、入っていいって言われたけど。
 塩田先生は、そもそも学校の先生になんかなりたくなかった。画家になりたかったんだろうな。でも画家になんて、そうそうなれない。先生をしながら、日展などに絵を出していたんだろうと思う。抽象画を描いていた先生は、オレに自分の絵を見せるわけ。美術部の部室に置いてある100号ほどもある大きさの絵を、「イサジ、いまやっているのは、この黒とブルーなんだ」とか言って。
大江田   へえ、面白いね。
イサジ  いろいろ心配してくれた先生だった。「先生、どういう風にして学校の先生になったんですか?」って聞いたら、「武蔵美で油絵科に通いながら教職課程をとって、そして卒業して先生になった」って、教えてくれた。「武蔵美って簡単に入れるんですか?」「ああ、誰でも入れるよ」「ええ、そんなあ?」「いやあ、俺の時は戦後のドサクサで誰でも入れたんだよ」って(笑)。
大江田  先生のことが好きだったんだね。
イサジ   もう大好き。でもね、美術部って言ったって先生は自分の絵を描いているし、オレはオレで自分の絵を描いているし、特別な指導も無いしね。美術部っていったい何だったんだろうって、今でも思うよ(笑)。初めて"美術部"と感じたのは、高校の時。ようやくそう感じた。食パンでデッサンの木炭を消すとかね、フランスの貧乏画学生ってこういう感じなのかなって。高校の美術部の顧問の先生は、日展に作品を出品して、毎年落ちていた。オレは、1年で全国学生美術展に入賞して、2年では県の美術展で教育長奨励賞を取ってしまって。そうなると今度は、先生が「水平線の位置、ここでいいかな、イサジ?」って(笑)。「そんなこと、先生、自分でやってくださいよ(笑)」ってなっちゃった。
大江田  先生は、イサジが賞を取って驚いたんだね。
イサジ  そうそう。磐城高校で賞を取った人はいなかったんだ。福島テレビでは美術展のことが放映されたし、先輩たちも「画期的な出来事なんだぞ、イサジ、わかってるのか?」って言うわけ。
 展示された絵を搬出する時には、伯父さんの軽トラックに乗せて運んでもらった。国道を走っているときに、風にあおられて絵が飛んでいって、後続の車に轢かれてボロボロになってしまった(笑)。


私は幸せ者だ② in 神津島2018


シュールレアリズムにぞっこんの学生時代

大江田  それはどんな絵なの?
イサジ  まるでダリですよ、シュールレアリズムの真似っこなんだけど(笑)。タイトルが「無関係な関係」って言ってね、本当にもうしゃらくさい(笑)。四角い箱から手が出ていて、それが途中で切れている。どこを指しているのかよく見ると、透明のドクロがあったり。チョコレートと紫を混ぜたような色のバックで、砂漠のような感じで、ぬめっとしているのね。
大江田  確かにダリっぽいね。
イサジ  ダリのような技術は、ないけどね、オレとしては相当にすごいなと思います。80号か100号に近い大きさの油絵でした。
大江田  どれくらいで描いたの?
イサジ  一ヶ月くらいかかったかな。
大江田  一ヶ月間も自分の絵の前に立って作業するって、どういう気分なの?
イサジ  ああ、もう、エクスタシーの連続だね。
大江田  へえ、そうなの。
イサジ  空いている社宅の家があって、そこをアトリエにした。小さいコンポを1万円で買って、大音量でレッドツェッペリンの「胸いっぱいの愛を」を聞きながら、何て幸せなんだろうって思いながら、絵を描いた。中学のころからシュールレアリズムにぞっこんだったので、水彩やポスターカラーで似たようなものばっかり描いていた。子供の頃に見たダリの画集の影響がずっと残っていて、もうあれを超えるものには出会うことはないだろうと思っていた。
 どうしたらああいう絵が描けるんだろうって思っていたところ、高校に入って油絵をやるようになって、ああ、油絵だったらこうしてボカシたり、指を使ったりしてできるんだって、技法が見えてきた。


私は幸せ者だ③ in 釧路「きた乃家」2017(翌年閉店)


自分のイメージをビジュアルに変えるのが一番大事な作業

大江田  なぜシュールレアリズムに傾倒したんだろうね。小学校高学年で初めてダリの絵を見て、そしてずっと高校3年に至るまでシュールレアリズムを追い続けるエネルギーの源泉が、ダリの絵にあったのかな。
イサジ  うん、まずは絵を見た時のショックでしょうね。ドイツ幻想文学とか、フランス幻想文学などのダークサイド・ファンタジーを読むのが好きだったんだけど、もしかするとそうした発想の元がダリの絵にあったのかなって思う。
大江田  人間の暗部みたいなものが、ダリの絵に表現されていると感じたの?
イサジ  ダリ自身にそういう意図があったとは思わない。オレに、そういう風に感じさせる因子があったということかな。まあ、ダリは嘘つきだしさ。彼の絵をフロイト的に夢診断するとか、そういう解説は信用できない。ダリも口ではその種のことを言ってるけど、それを信じて描いているとは思えない。
 彼は、描くのが好きなんだろうと思う。ものすごく上手いから、いいものが出来ちゃう。掠奪した奥さんのガラを描くときは、「私はガラを描くときだけは、セザンヌになる」なんて言ってるんだよ(笑)。農耕民族からはシュールレアリズムは生まれないとかね。「畜生、この野郎」って思った。そんなはずはない、青森を見ろ、棟方志功を見ろよって、オレは思った。
大江田  どうしてそこでセザンヌが出てくるの?
イサジ  セザンヌのように、純粋に素直に描く絵描きには、ダリはなれないんだよ。セザンヌの絵には、すべてが入っているから。骨太でドーンとあるのがセザンヌ。かっこいいんだよ。ダリの絵はね、演出しているの。こうやったらスゴイだろうなって、考えながら描いていたんだろうな。
 つまりダリには、画家ではなくてイラストレーター的な指向があったんだろうと思う。画家は"己のための絵"を描き、イラストレーターは"コミュニケーションの道具としての絵"を描くからさ。
大江田  2年の時の出品した美術展で表彰されて、絵で行こうと思ったの?
イサジ  それは高校1年の時から、ずっとそう思っていた。

大学受験用写真:高3/磐城高校 第29回高月祭ポスター:高2

大江田  人生を絵で生きようと。
イサジ  絵で生活をしようなんて、考えてない。高校くらいになるとグラフィック・デザインとか、イラストレーションを知ってしまう。横尾忠則も出てきたし、アール・ヌーヴォー的なポスターも流行ったし。アメリカのジャズのレコード・ジャケットを見て、グラフィック・デザインがいいな、デザインって楽しいなって思った。
 そう思いながら気がついたのが、子供の頃から火の用心などの標語を使って、ポスターを描くのが好きだったこと。そういう仕事があったらいいなって。 大学は美大に行って、商業デザインをやりたいと思った。そのときは、デザイナーというのは、大学のデザイン科を出ないとなれないと思った。
 で、いざ東京造形大学に入ってみると、デザイナーになるのに大学は関係ないんだって、すぐに思った。もちろん学ばなくちゃいけないこともあるけど、自分のイメージをビジュアルに変えるという一番大事な作業については、大学での勉強は関係ないと感じた。周囲の学生があまりにもデッサンが下手で、嫌になっちゃったこともあるし。でも辞めなかったのは、彼女が出来たことが大きい。
大江田  またしても、そうなんだ。
イサジ  高校の時は、彼女はいなかった。ちゃんと付き合ったのは、大学1年から。同じ専攻で、オレに積極的に近づいてきた子がいた。そのあと、なかなか切ない話になるんですけどね、悲しい別れが来るんですよ。
大江田  どうやって自分を立て直したの?
イサジ  しょうがない、学校の課題に対応しながら、自分の作品をやっていこうと思った。


教授陣は「ゴメンね」と言った

大江田  課題とはどういうもの?
イサジ  線と面とで構築し、ポスターカラーとパステルを用いて色を塗り加え、全体を立体化し作品を作りなさいという課題。いざ課題を提出すると、教授陣がオレの作品を「僕たちには評価できない」と言うのね。というのは、その頃の造形の教授陣は建築科から来た人たちだったから。定規とコンパスでできるカタチが、グラフィックデザインの基本だよという教え方だった。オレみたいにシュールレアリズムをベースにデザインを作るという方法は、理解できないわけ。だから教授陣は「ゴメンね」って、すまながってた。
大江田  何らかの広報や宣伝を目的として作られるものがポスターだ、という前提はないの?
イサジ  そんなこと、オレは考えていない。かっこいい、先鋭的なアートがポスターであるという認識だな。大きな紙に印刷されて見栄えがいいっていうイメージだった。
 オレが作っていたのは、絵画的なものだった。オレが発想したものを、色彩計画を考えながら、色や線を使って絵にしていくプロセスが楽しいし、そうして出来た絵が印刷されるかもしれないということに、喜びを感じていた。
大江田  高校時代に、レッドツェッペリンの「胸いっぱいの愛を」を聞きながら描いていたのと、一緒だね。
イサジ  A2くらいのサイズのものを、国分寺のアパートで描いていた。ポスターカラーとパステルで作品を作った。性欲に邪魔されたけど、描いている間は夢中だったね。
 とにかく大学4年間は、デザインの勉強をした。オレが私立の美大に行くから、兄貴は我慢して国立大学に進学したし、親との約束もあったし、大学は辞めなかった。
大江田  大学4年間って、アルバイトしたの?
イサジ  してない。アルバイトするんだったら、横になって寝ている方がよかった(笑)。腹減っててもなにもしない。実は彼女が医者の娘でさ(笑)。そのころからよ、オレのヒモ体質は(笑)。
大江田  そういえば、ボッシュが好きだって言ってたでしょ。いつ頃からなの?
イサジ  小学校の頃にダリと一緒に見ていたはずなんだけど、その頃はピンとこなかった。高校ぐらいからかな、面白いなと思った。
 ボッシュの絵に描かれているのは、妖怪的なものなんだ。茶色、赤、黒の使い方とか、タッチとか、ブリューゲルの絵と似てるんだけれども、ボッシュの方がもっと悪魔的。ボッシュが描く一つ一つのキャラクターが、あまりにも魅力的だった。ブリューゲルはレベルも高いし、絵もうまい。ボッシュって、15〜16世紀のオランダの画家でしょ。あんなに反教会的なこと考えていて、よくぞ処刑されなかったよね。
大江田  高校の頃に好きだったのはダリとボッシュ?
イサジ  ピカソも好きだった。理解できない面白さがある。
大江田  面白いという言葉を使う時に、理解ができなくてもいいの?
イサジ  うん。理解できることばっかりが面白いとは、思っていなかった。ピカソはショックだった。不快な感覚があった。キリコもそうなんだけど、気になって、気になってしょうがないわけ。ずっと考えてる。で、ある時、オレ、卵を書き出すわけ。
大江田  キリコじゃん。
イサジ  そう、オレ、キリコやっている(笑)。でね、描いてみたら面白いんだって、わかった。見ているだけでは、わからない。ピカソのように鼻をこっち向けて、目を二つ描いてみると、ああ、面白いってわかる。これだったのか、ヤツらは(笑)。
 まあ、それだけじゃないんだけどさ、描いてみるとわかることもあるんだってことなの。
大江田  ピカソはさ、「見たままを絵に描くのではない。見たいように描くんだ」といった意味のことを言ったんだってね。
イサジ  素敵な言葉だよね。オレが好きなのはね、ピカソが「この絵の何が良いんですか?」って聞かれて、「私の絵は、鼻の高さがわかるでしょ」って答えたって話(笑)。面白いこと言うよね。何て頭の良い人なんだろうって思った。

私は幸せ者だ④in 新子安2022


勇気をもって撤退しよう

大江田  大学4年間のうちに、米軍ハウスに住んだこともあるんだよね。
イサジ  大学3年くらいからかな、昭島のハウスに住んだ。なにより米軍ハウスに住んでみたかった。10畳、8畳、6畳の3ベットルームの家だったので、"4人で十分に暮らせるよ、あんたたち、オキュパイしておいたからね、早く決めないと他の人に貸しちゃうわよ"って、英語を喋るようには見えない不動産屋のおばちゃんが言うわけ。家賃は月6万円だから、4人だとひとり1万5千円。スーパーの店員さんとかね、そうは見えないのに英語を喋る人がいっぱいいるんだねよね、ハウスの周辺には。それが悔しいし、面白いの。
 ただね、昭島って冬は寒いし、外人ハウスって寒いのね。大学卒業後、仕事も少しずつもらえるようになって、酒も飲んでギターも買えるぐらいになってくると、吉祥寺でライブを聞くのも、六本木の編集プロダクションに行くにも、昭島からはキツい。
大江田  大学出てからも、しばらくは米軍ハウスにいたの?
イサジ  そう、そう。

デザイナーを目指していた大学時代、帰省先の小名浜港で友人の漁師が撮影

大江田  大学出る時に就職活動はしたの?
イサジ  してない。就職活動をしているヤツらが右往左往しているのをみて、ああ、嫌だって思った。美大に入ってきたのに、卒業するのになぜ就職活動なんてするんだろうって、思った。オレはグラフィックデザインとイラストを描いていくんだって、勝手に思ってた。
 その時にさ、悪い先輩がハウスに一緒に住んでいてね。彼は乃村工藝社っていう日本の大手ディスプレイデザイン会社で、デザイナーだったんだけど、辞めちゃって。「イサジ、いいか。デザインなんてのは発注する側が楽しいだけで、受ける側には自由なんてなくて、何一つ面白くなんかないんだ!」って言うのね。彼は充分やってきたから言えるんだけど、これからやっていこうと思っているオレにさ、そういうことを言うわけ。「オレは、これからアメリカに行って学んでくる。そして帰ってきて店をやる。店の半分のスペースは、古着のTシャツを仕入れてデザイン加工して売るTシャツ屋。半分はサンドイッチハウス。お前もやるか?どうだ?」って言うから、面白そうだなと思った。これが卒業目前の2月ごろのこと。先輩の伯父さんがNHKの偉い人だとかで、200万円を貸してくれると言う。さらに国民金融公庫から、300万円を借りようということになった。
 ネクタイをして大学卒業時に作ったスーツを着て、金融公庫に事業計画を提出した。金融公庫の回答は、200万の融資だった。合わせて400万だよね。それを踏まえて、店舗を探した。ところが店舗を借りるときの保証金がえらく高い。渋谷がいいと思ったんだけど、どんどん離れていって、国分寺に保証金200万、家賃が12万の店舗を見つけた。「ここで手を打つか」って、先輩が言う。オレはわかんないから、「どこだってっいいよ」って答えた。
 それまでに、「お前のデザインは面白いから」って言われて、Tシャツのデザインをいっぱい作っていた。先輩は先輩で、サンドイッチの試食会をやったりしていた。そんなこんなしながら、先輩はずっと資金繰りの計算をしていた。ここで運転資金がなくなって云々なんてね。そして言った。「勇気をもって撤退しよう」って。オレはさ、「何ぃ〜、何だそれ〜!」って叫んだよ。
 その時は、もう大学を卒業した後の8月だった。ハウスの家賃もあるし、働かなくちゃいけないんだけど、バイトはちゃんとしたことないし。でもやんなきゃしょうがないから、日露漁業が作った畜産部門の立川食肉センターという、そこでバイトを始めました。真面目にやって、月に8万くらいかなあ。冷凍庫の仕事だから、それはもうきつくて、きつくて。お盆と正月には、暑中見舞いやら年賀状配りもやった。郵便局から自転車を借りてね。
 そんなバイト生活をしながら、出版社とかデザイン事務所に、作品を持って飛び込みで行ってたんですわ。

私は幸せ者だ⑤ in 豊橋2022

イサジツトム〜その2 自分の中に生き続けるものがある
イサジツトム〜その3   進まなきゃいけない、進みたいという想い に続く。



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