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イラストレーター/デザイナー/フォーク音楽家 イサジツトムに会った _ 3

 ゆっくり話を聞きたいと思っていた人がいた。さりげない振る舞いや、ふと発する言葉に惹かれた。自分の場所で生きているように見えた。どんな来し方をしてきたのだろう。覗きたくなった。そんな人たちの探訪記「あの人を訪ねる」。

第一回目には、イサジツトムさんに登場していただきました。

イサジツトム〜その1 絵のことばかりを考えていた
イサジツトム〜その2 自分の中に生き続けるものがある
に続いて、

イサジツトム〜その3 進まなきゃいけない、進みたいという想い
をお楽しみください。

イサジツトム〜その3 進まなきゃいけない、進みたいという想い


ロッホローモンドに体をもっていかれる気がした

大江田  記憶に残っている最初の音楽は、何ですか?
イサジ  作家志望で本とジャズが好きな変わり者の伯父さんがいて、ジュリー・ロンドンやナット・キング・コールを、小学校の5年か6年のオレにやたらと聞かせたんだよ。そうそう、ジョン・コルトレーンも聞かされた。子供には、面白くもなんともないよね。ただね、ナット・キング・コールだけは、いいなあと思った。
 中学に入ると、同級生の佐藤くんの家で聞いたジリオラ・ジリオラ・チンクェッティの「雨」に、ガーンときた。これは最初に話したよね。今でも歌詞を覚えているんだからなあ、不思議だよ。それから親戚の叔母さんに聞かせてもらった「ロッホローモンド」に、衝撃を受けた。なんてオレに合ってるんだろうって、思ったよ。メロディを聞くと、体が持っていかれるような気がした。中学3年くらいだと思う。しばらくしてドヴォルザークの交響曲「新世界より」の第二楽章のあの有名なメロディを聞いて、同じような衝撃を受けた。メロディアスで湿気があって、ゆったりした空気感のある音楽。そういうのが、オレは好きなのかなあって思った。加山雄三の「蒼い星くず」も好きだったけど。
大江田 ギター買ってもらって自分で弾きたいとか、合唱団に入ってみんなに混ざって歌いたいとか、そういうことはなかったの?
イサジ  音楽はあくまで鑑賞するものだった。 
 高校に入ると、音楽を教えてくれる友人に会う。金持ちの家の子供たちはいろんなものを聞いていてね、洋楽にいっぺんに開眼した。名前は知ってたけど、ピンと来てなかったビートルズを聞かせてくれた。でもね、ローリング・ストーンズの「ホンキー・トンク・ウィメン」の方が、ずっと良かった。メロディが好きだったのかな。
 どっちかっていったら、オレはフォーク寄りだな。オレが最初にピンと来たのが加川良の「教訓 I」。「なんだ、これは〜」って思った。余りにもショックだったので、少ない小遣いからEP盤を買った。学校の帰りに色んな喫茶店に寄って、「これをかけてください」って廻った(笑)。「なにこれ、この歌」って嫌な顔をされて、途中で止められて「はい、返す」なんてやられた(笑)。
 その頃に"唄の市"のコンサートがいわきであって、そこでオレは大波をかぶるわけ。いろんな人が出て歌ったよ。加藤和彦って、なんてカッコいいんだって思った。汚い服装が流行ってたんだけど、背が高くてスーツ着て、ひとりだけお風呂に入ってるみたいで(笑)。RCサクセションは、まだ学生だったのかな。
大江田  「ぼくの好きな先生」とか?
イサジ    そう、あれを歌ってた。すでに大人気だった吉田拓郎も来てた。いいなとは思ったけど、でもオレは泉谷しげるの「白雪姫の毒リンゴ」と「黒いカバン」を聞いた時に、膝を打った。フォークってこんなに自由なんだ、なにやってもいいんだって思った。聞き手ではなくて、演奏している"あっち側"に行きたいって、強く思った。
大江田  ギターを買ったの?
イサジ  お金そのものがなくて、買えなかった。人のギターを借りて弾いた。金持ちの家の友達のところに行って、「ちょっとそれ弾かせてよ」、なんてね。そういうところはオレ、鼻が効くから。そうするうちに「もう良いよ、これ、あげるよ」って太っ腹な友達(西山君)がいて、フェルナンデスのセミアコをもらった(笑)。コードや押さえ方を教えてもらって、アンプはないからそのまま弾いてた。ガッツや新譜ジャーナルなどフォークを扱う雑誌は見てたけど、オレは譜面は読めないし、ありものの曲をコピーするのが面倒臭くて、だったら自分で作った方が早いって思った。
大江田   もう作り始めたの?
イサジ   ひどいもんだけどね、作り始めた(笑)。Eしか押さえられないから、最初はEのワンコードで歌えるうたね。Eの次にはAを押さえた方が曲らしくなるんだけど、Aが押さえられない。でもEのフォームのままずっと右にフレットを上げて行ったら、Aになった。そういうのがしばらく続いた(笑)。

南千住@泪橋ホール2023年


大江田  人前で演奏したりは?
イサジ  そうなると、もうやりたくてしょうがないから、オレと友達で公会堂を借りてコンサートを主催した。入場料が99円だったら税金がかからないらしいと聞いて、模造紙を切り取って、チケット100枚を手書きで作った。
大江田  お客さんは、入ってくれたの。
イサジ  80人くらい入った。びっくりしたよ。震えたもん(笑)。アガるなんてもんじゃないよ。嬉しくて嬉しくて。とてもじゃないけど、オリジナルは歌えないので、武蔵野タンポポ団の曲を歌った。「もしも」とかさ。なんていい歌なんだろうって思った。でもさ、やれる曲が3曲くらいしかないの。全員がギターを持っているわけじゃないから、「お前は「村田英雄の『皆の衆』を歌え。そうするとお客さんが喜ぶから」とか言って、アカペラで歌わせた。フォーク・コンサートと言いながら、半分は演歌だった。お客さんが、笑ってくれたよ。
 このままじゃいけないと思って、楽器も持っていて技術もある奴らに仲間に入ってもらって、教えてもらった。彼らは、オレに客を集める能力があることに、驚いていたのよ(笑)。そうしてできたユニットが"だいまじん"。いわきで人気になったんだよ(笑)。
大江田  "唄の市"みたいに、メンバーが入れ替わりながらステージに登場したのかな。
イサジ  そうそう。学校の文化祭でも演奏した。
大江田  自分たちのグループに、なんとか女の子を引きれようとはしなかったの?
イサジ  そんなの、全然なかった。考えもつかなかった。バンドにオンナが入るのが、嫌だったもん。
大江田  へえ、信じられない。
イサジ  オレ、単に性欲だけだったんだと思う。ハートなんか、ないんだよ(笑)。
大江田  なんだよ、それ(笑)。そういう高校時代だったのか。

アルバム「グッド・フェローズ」に参加する

大江田  大学に入って上京してくると、吉祥寺に行くようになるよね。
イサジ  そうなると、また聴く側に戻るわけ。
大江田  絵でいこうと思って、家族にも負担をかけながら美大に通い始めるんだものね。勉強しなきゃって思ったんだろうな。
イサジ  オレ、それまで学校がすごく好きだったのね。学校をサボるとか、登校拒否とか気がしれなくて。でも初めて登校拒否の気持ちがわかった。行きたくなくて、行きたくなくて。先生の教える内容と、オレが知りたい内容とが、全くすれ違ってた。授業がつまらなかった。かと言って油絵科に行けばいい、ということでもないし。オレはポスターがやりたかったから。
大江田  その頃はどんな音楽を聴いていたの?
イサジ  高校時代から聞いていたCSN&Y。それからサム・クックとオーティス・レディング。ダンス・ミュージックではないR&Bっていうかな。"のろ"で知った。
 のろは後々にフォーク系のライブ・ハウスとして有名になるんだけどさ、働いているスタッフはノれる音楽が欲しくて、そういうのを店でかけていた。へえ、こんなカッコいいんだって思った。永井隆さんがやってたウエスト・ロード・ブルース・バンドも、カッコいいなあって思った。吉祥寺には、”ぐゎらん堂”があったでしょ。なぜか、オレは行かなかった。のろには、ライブ後の二次会として飲みに来る人が多かった。ああ、中川イサトさんがいるなあとか、遠くから見てた。そうこうするうちに絵で食えるようになって、また歌を始めたいなと思った。その頃には、ミュージシャンの人たちと、話ができるようになった。30歳くらいかな。安っぽいギターは持っていたんだけど嫌になって、イサトさんにお願いしてマーチンのトリプル・オーを、分割払いで売ってもらった。そして歌い始めた。

マーチン000 Yeah !(中川イサトさんから長期月賦で入手)


大江田  "「のろ」で高田渡・中川イサト・中川五郎・村上律などの薫陶を受ける"ってバイオに書いてあるけど。
イサジ  色々と教えてもらったけどね。村上律さんに、コードの押さえ方とか、教えてもらった。「律さんて、譜面は読めるの?」って聞いたら、「アホ!読めねえ奴が、おるかっ!」って怒られた(笑)。フォークの人って、譜面が読めるんだって、初めて知った(笑)。イサトさんは五度圏表を見せて、コードの機能とかをオレに教えようとする。オレが「わかんない」って答えると、「ああ、まあエエわ」って言われた(笑)。コードの押さえ方とかスリーフィンガーとか、基本的なことを教えて欲しかったんだけど、まあ、自分でやらないとね。薫陶って、そういうこと(笑)。
大江田  そうこうするうちに、アルバム「グッド・フェローズ」を作ることになったんだよね。
イサジ  のろの亭主の加藤さんが、"のろレコード"を立ち上げた。馴染みの何人かのアーチストで、CDを作ろうということになった。音楽監督に中川イサトさん。「イサジ、お前も好きなんだから、やれ」ってイサトさんに言われて、オレも加わった。この頃、年に二回、のろではいろんなアーチストが出る企画もののライブを組んでたの。その中に、CSNYのもじりで、TIYYって名前を付けて混ぜてもらったりしてた。TIはツトム・イサジで、YYは吉田裕。吉田くんはのろのバイト。グッド・フェローズのCDにもTIYYで参加した。素人は、加藤さんとオレたち。それ以外はプロのミュージシャンが集まって作った。タイトルはどうしようかっていう段になって、「いい仲間だから、グッド・フェローズはどう?」ってオレが提案したら、「それで行こう」ということになった。
 そうそう、アルバムにイサトさんが書いた「Good Fellows 始末記」があるから、長いけど引用してもらおうかな。

(左から)中川イサト/中川五郎/今井忍/のろ加藤/イサジ/佐久間順平井の頭動物園(撮影禁止のため早朝ゲリラ撮影)1991年

 コトの発端は1990年の夏と冬に吉祥寺”のろ”に集まる気心のよく知れた音楽好きの面々でライブコンサートをやった事にある。中には飲み屋のオヤジもいれば、イラストレーターもいれば、物書きもいれば、それはそれはとんでもない顔ぶれのライブコンサートだった。
 でも、それなりにリハーサルも重ね、皆、本気で唄い演奏していた。そしてどの顔も満足げだった。
 その顔ぶれが今度はアルバムまで作ってしまった。大胆不敵とはこの事か。しかし聴いてみれば気付くと思う。ここでも皆、本気で唄い演奏している。
 あまりにもいい加減で内容のない音楽が世の中に氾濫し過ぎている。
 もう黙っているわけにはいかなくなった。そう、オジサンは達は怒っているのだ.....。
 グッドフェローズ監督:中川イサト

参加ミュージシャン
中川イサト 今井忍 中川五郎 佐久間順平 イサジBAND(TIYY) のろ加藤
野口明彦(Dr)ANNSAN(Perc)   岡嶋BUN善文(B) ロケット・マツ(pf) 吉田裕(Eg)  山本隆昌(Dr) 杉森俊昭(Key) 土岐理恵子(Back Vocal) 阪本健(Banjor) 松田Ari幸一(Perc)  竹田由美子(pf) 村上良成(Sax) 小藤田康弘(Flute)  高橋誠一(key) 
今井利春(Mix) 和島基生(Mix)

クール・ナガサキとハイビスカスが誕生した

大江田  岡嶋善文さん(BUNちゃん)と知り合ったのは、この時なの?
イサジ  この時が、初めて。オレが作った曲に、BUNちゃんがベースを弾いてくれた。初めて聞いたはずの曲なのに、ばっちりフィットした演奏だった。BUNちゃんのベースで歌うことが、なんて気持ちいいんだろうって思った。だいぶ前のことだけど、飲み友達の"サントリー阪本"こと阪本洋さんに、「ヴォーカルっていうのは、ベースを聞きながら歌うんだよ」って教わったことがあった。あ、これかって思った。こうして歌えば音程も取れるし、リズムもいいと気づいて、そんな話をBUNちゃんにしたら、彼も喜んでくれた。それからはBUNちゃんと、しょっちゅう酒を飲んだ。今井忍ちゃんも一緒ね。
 あるときBUNちゃんが、「ウクレレって楽しいよ、車が渋滞しても弾いていると、腹が立たないよ」って。「ああ、それいいねえ」なんて話してね。しばらくして、鎌倉研さんの結婚式で、BUNちゃんと忍ちゃんとオレとで、披露宴余興バンドとして演奏した。大好評だったんだよ。この時に、"クール・ナガサキとハイビスカス"が誕生した。BUNちゃんがクール・ナガサキを名乗って、忍ちゃんがパール・ヤマグチ、オレはパイン・オカヤマ。あとからミッシェル・T・ミヤザキこと岡澤敏夫が加わった。
大江田  鎌倉さんの結婚式だったら、会場には業界関係者とかミュージシャン仲間とか、いっぱいいたんじゃないの?
イサジ  うん。面白そうだから、うちからCDをリリースできるかもって言われて、3人でレコード会社に面接に行ったっけな。立ち消えになっちゃったけど。
大江田  仲良しだったんだね。
イサジ  うん、いつも一緒にいたからね。まぁ、のろ仲間だよね。「常夏の島へウエルカム、玉虫色のパラダイス、楽しいメロディ波に乗せ、みんなの舟にとどけましょう、赤道越えた人気者」がバンドのコピーだった。

ライブのフライヤー


 BUNちゃんと忍ちゃん、あの二人は尊敬し合ってた。BUNちゃんは、伊藤銀次、浜田省吾、石川秀美、渡辺真知子などのツアーでベースを弾いていた。忍ちゃんは、詩人、尾上文さんと二人で、ボーイ・ミーツ・ガールの活動をしてた。ボーイ・ミーツ・ガールのレコーディングの時には、ベースをBUNちゃんに弾いてもらっていたから。
大江田  ボーイ・ミーツ・ガールの世界ってさ、イサジの世界とちょっと違うでしょ。草食系の男の子ふたりって感じで。
イサジ  全く違うよ、よくあんなことできるよなあ。オレ、気持ち悪くてしょうがないよ(笑)。
大江田  そのころからソロでのライブってやってたの?
イサジ  ほぼやってない。
大江田  ソロの時は、イサジ式って名乗っているよね。イサジ式を名乗り始めたのはどうしてなの?
イサジ  イサジの名前の落ち着きが悪い。もう一文字欲しいなあと思っているうちに、"サクマ式ドロップス"を見つけて、カタカナにプラス"式"って、面白いなって思った。それで、イサジ式を名乗ることにしたのね。まあ言ってみれば、そういう看板を作って楽しんでいるみたいなことかな。
大江田  それが2000年頃なんだね、45歳だ。同じ頃に"フィルモア井の頭街道"を名乗るライブ企画を始めた。
イサジ  そうです。最初はのろでやってた。下北沢のラカーニャでも、やったことがある。BUNちゃんと忍ちゃんとオレとロケット・マツが基本のバンド。そこにゲストが加わるカタチ。青木ともこさん、大庭珍太もゲストで来てくれた。
大江田  ソロ・アルバムを発表するレーベルの「NO NUKES RECORDS 311」を設立したのが、2013年。イサジ式を名乗り始め、フィルモア井の頭街道のライブ企画を始めてから、ここまでに13年かかってる。やっぱり絵の方が忙しかったのかな。
イサジ  それは、まあそうだね。音楽活動のメインはハイビスカスで、それなりに忙しかったよ。
大江田  ハイビスカスでは、イサジは知恵袋っていうか、企画担当、ユーモア担当だよね。
イサジ  そうですね。
大江田  どういう意識で、ああいう音楽が出てきたんだろう。
イサジ  パロディ精神でしょうね。マッド天野の作品とか、楽しいなあって思った。ああ、こういうのをパロディって言うんだって、教えられた。オレに合ってるなって思った。ユーモアが滲むのが、好きなの。

ハイビスカスのCDの一部

旗を立てることにした

大江田  そして2013年に「NO NUKES RECORDS 311」を設立して、ソロ・アルバムの発表を始める。フクシマの地震被害と原発事故が、きっかけになったのかな。
イサジ  そう、それです。2011年に東日本大震災が起きたでしょ?すぐに、いろんな人が歌い出したのね。オレは耐えられなかった。絆とか、花が咲くとか、希望が実るとか。まだ被災が続いている時に、なぜこんな風に歌えるんだろうって思った。腹が立った。なにか表現したいという気持ちはあったんだけれど、オレの絵にはその力は無かった。そういう才能は無いんだなと、わかった。歌はというと、「帰れない町」が、わりと早くできた。でも、すぐには歌わなかったんだ。まだ歌うべきじゃないと思った。その頃、ハイビスカスで九州ツアーに行ったのね。九州の人たちが、あまりにも福島を知らなかったので、こういう所で「帰れない町」を歌わなきゃって思った。それで歌い出したのが2012年ごろかな。

大江田  ハイビスカスのツアーのライブの中に、イサジのソロが入ってくるわけだね。他のハイビスカスのメンバーはOKなの?
イサジ  もともとオレはこういううたを歌いたい、イサジ式でやりたいということは、ずっと言ってたから問題ないよ。BUNちゃんにベースで入ってもらって、イサジ式の練習もしていた。だからすぐにファースト・アルバム「いつか来た道」のレコーディングに、取りかかれた。こうして道楽じゃなくちゃんとやっていこうと思って、「心優しき正直者に労いの歌を 悪意にまみれた嘘つき共に怒りの歌を」をテーマして、旗を立てることにした。退路を断つというか、オレの宣言だな。優しい言葉の音楽なんて、そんなの嫌だっていう宣言。そこで初めて本格的なイサジ式になった。
大江田  それまで縁があるお店などに、歌いたいって声をかけたんだね。ブッキングして、スケジューリングしてって、大変だよね。
イサジ  そりゃ、大変。だけど燃えていたんで、感じなかった(笑)。歌えることが嬉しくてね。ハイビスカスの受け方と違うじゃない。「ワハハハッ」っていう受け方じゃないからね(笑)。「うーん」って聞く人もいるし。褒められているみたいで、嬉しいよね。

NO NUKES RECORDS 311・ロゴ
1st「いつか来た道」2015年/2nd「桜とウヰスキーの頃」2018年
3rd「水は誰のもの土は誰のもの」2021年/4th「風はまだ止まないが」2023年


大江田  なるほど。そして元上々颱風の西川郷子さんともユニット"ニシカワMEETSフォーク"を結成したのね。
イサジ  前々から西川さんの声と歌がいいなあと思っていた。彼女に歌ってもらえたらいいなあ、彼女の声で聞きたいなあと思って作った曲があった。そんな話を本人にしたら、試してみようかってことになった。歌ってもらうと、これ、いけるかもって思ったよ。オレの歌でよかったらそれをセット・リストにして、ライブをやってみようということになった。彼女は好きな外国曲に独自の日本語詞をつけたものなどを選び、オレはオレの歌をうたってライブをやった。「年に一回くらいできたらいいね」なんて話してたら、お店からライブのリクエストをもらったりしちゃった。
大江田  これまでソロ・アルバムを3枚発表した。作りながら、どんなことを考えていたんだろう。アルバム制作にはお金もそれなりにかかるし、覚悟もいるものね。
イサジ  絵の個展に近いのかな。ペイしなくちゃいけないだろうし、稼がなきゃいけないのかもしれないけど、なにしろやりたい、「どうだ、おい」って(笑)、作った作品を見せびらかしたいというのが、まず最初だね。明らかに前作よりステップアップしてることを自分で感じているので、これを今、みんなに褒めてもらわなきゃと思う。きっと、すごく褒めて欲しいんだと思うよ、オレ(笑)。
 作家名も作品名も関係なく、絵を見た人がまるで風景を褒めるようにして「ああ、いい絵だね」って言う。オレは、絵のそういうところが好きなのね。音楽も誰が作ったのか、誰が歌っているのかなんて関係なしに、ラジオから歌が流れた時に「ああいいなあ」と思う、そういう無名性を褒めて欲しいと言う気持ちがあります。
大江田  歌に作家性は不要だと言いたいのかな。単に「あ、いい歌じゃん」って言われたい。そういうことかな。
イサジ  うん。「あ、この声を前にも聞いたことがあるぞ」みたいなことで、オレにつながってくればいい。
大江田  それって、フォークソングが好きな人の考えに近いと思う。
イサジ  あらゆる芸術は、そうなんだと思うよ。
大江田  例えば、落語を聞いて思わず笑ってしまった。なぜだかよくわからないけど、笑っちゃった。そこから始まって、落語に対する興味が湧いていくというのが、芸能や芸術に対する素直な向き合い方だと思う。ある作品がいいということを理解するために、作品の背景とか、作品の時代性を説明されてから、いいと思うんじゃなくて。それに近いかな。
イサジ  そうだと思う。漫才の場合ね、テレビだけではなく、ラジオから聞いても笑えるものが面白いという、一つの物差しを持ってるな。
大江田  ソロ・アルバムを発表するごとにステップアップしてるということを、自分ではどう評価しているのかな?
イサジ  作詞において、言葉を削る作業ができるようになってきたかな。
 江戸時代の一刀彫の円空なんだけど、彼は仏師というよりアーチストに近いと思うのね。こんなに削っちゃっていいのって思わされる仏像があるかと思うと、こんなにいいのに、これ捨てちゃうの?って仏像もある。
 “せっかく浮かんだこの言葉を使いたいなあ”みたいな気持ちが、まだまだどっかにある。そこには“こんな単語が浮かんだぞ“という喜びがあるんだけど、でもそれも捨てるっていう方向で動いている。やっと少し削る作業ができるようになった、というところかな。
大江田   自分の歌と画家としての作品に、共通点は感じる?
イサジ   感じない。歌はさ、己と同体だと感じるけど、絵は己から離脱したものと感じるから。絵は他人が入り込む余地のない完全に自分の世界だけれども、書き終えるまでとにかく時間がかかるわけ。それに比べて歌は出来上がったら、すぐに歌える楽しさがあるよね。自分の歌を、ミュージシャンたちと一緒に演奏する楽しみもあるしね。


やっぱり動かなきゃ、進まなきゃいけない、進みたいという想い


大江田  最新作の「風はまだ止まないが」を、どう評価しているんだろう。
イサジ  冒頭に収録した「風はまだ止まないが」ができた時に、もうあれだけでよかった。ただ、1曲だけっていうのはあり得ないので、最低でも2曲は必要だなと思った。
 沖縄のコザにシアタードーナツっていう小さな映画館がある。宮島さんっていう個人がやっているんだけど、ドーナツを食べながら映画を見ようっていう、楽しい映画館なの。そんなに大きくないスクリーンで、置かれている椅子も、ソファだったり丸椅子だったりバラバラの名画座なのね。残念なことに、このごろ小さい映画館って潰れてるじゃないですか。オレのなかで、ふと「小さな映画館」って言う言葉が生まれた。宝物のように大事にした。歌にしたいなぁって思っていたら、うまく出来たんだ。しめしめって思った。沖縄旋律を使いたいな、かといってそれに縛られるのもいやだなとか、そんなことを考えながら「小さな映画館」を作った。「風はまだ止まないが」では、アイリッシュのサウンドに挑戦した。まさにロッホローモンドに戻ったのね。
大江田  人生がひとまわり円環したのかな。
イサジ  音楽全体の世界観の点でも技術的にも、これまでは出来なかったことが、今ようやく出来るようになった。こうしていろんな土地々々のオトって楽しいなってことに、気がついた。
大江田  そのほか「赤い月」は自己の投影、「何処へ行くのか」は「風はまだ止まないが」の裏側にある歌。そして「井の頭街道ブギウギⅡ」は、そういう気持ちが生まれつつあるという、再出発宣言なのかな。
イサジ  もともとオレ、こういうのが好きなの。武蔵野タンポポ団的じゃないですか。みんなでガヤガヤしたいのね。
大江田  改めて「風はまだ止まないが」の歌については?
イサジ  人間の罪業がちっとも良くなっていないけれど、でもやっぱり動かなきゃ、進まなきゃいけない、進みたい。ということです、簡単に言うと。
大江田  どうしてそういう風に希望的になれたんだろう。過去の三作は、暗いじゃない。
イサジ  「どうだ、暗いだろ」ってアルバムだよね(笑)。それでいいんですけど。
大江田  あの暗さはね、足腰がひ弱な暗さと感じる。それに比べると、「風はまだ止まないが」は、足腰の強い明るさなんだよ。
イサジ  いろんな所をぐるぐる廻って歌っているうちに、歌を聞いてくれる人の数が、少しづつ増えてきたからかなあ。
大江田  「風はまだ止まないが」の歌詞の次が歌われていないんだけど、サウンドが想起させる、もしくは行間が示唆しているものとして、"ボクは前に行く"と感じさせる、そういう歌になっているよね。トンネルをひとつ抜けた感じがするんだよ。
イサジ  まあ自分のことを歌ってるうたなんだけどね。人に向かって「希望を持つんだよ」なんて、とてもじゃない、オレはそんなことは言えないからね。
 以前、大江田さんからもらった手紙に「メロディやリズム、そして言葉とは、人々を繋ぐ共有物。『ワタシの歌』をずっと奥の奥まで辿ると、そのむこうにぽっかりと人々が待つ広場があるはずだという、その昔に聞いたハナシを思い出した」って。フォークソングって、そういうことなんだろうなって思う。「My Song」から「Folk Song」。自分の歌が誰かに伝わって、「あ、この歌はオレの歌だ」って感じてくれたら、フォーク・ソングが成就するのかなって思うんだよ。

大阪のライブハウスへ向かう、盟友・井山ブギウギあきのり君と。

10の質問と答え

大江田  最後に10の質問をします。簡単に答えてください。好きな言葉は、なんですか?
イサジ  睡眠。
大江田  嫌いな言葉は、なんですか?
イサジ    なにげに。
大江田   あなたの気持ちを高揚させるものは、なんですか?
イサジ  お寿司。
大江田    あなたをうんざりさせるものは、なんですか?
イサジ  ヘイトスピーチ。
大江田  好きな音を教えてください。
イサジ  南部鉄器の風鈴。
大江田  嫌いな音を教えてください。
イサジ  歯医者のドリル。
大江田  好きな悪態を教えてください。
イサジ  今日は、このぐらいにしといてやる(笑)。
大江田  今の職業以外でやってみたい職業を教えてください。
イサジ  F1ドライバー。
大江田    絶対にやりたくない職業を教えてください。
イサジ  教師だね。
大江田  天国があるとします。天国に着いたとき、神様からなんと言われたいか、教えてください。
イサジ    ゆっくりしていけば。
大江田  長い時間、ありがとうございました。


イサジツトムProfile
伊佐治 勉
1955年=福島県いわき市小名浜に生まれる。
本籍=台東区浅草橋5-2
父:伊佐治 保=浅草橋出身
母:鈴木イチ=いわき市出身
祖父(父方):伊佐治 仁三郎=岐阜県中津川出身
※中津川では伊佐治姓が珍しくないらしい
1967年=小名浜第二小学校(卒
1970年=小名浜第一中学校(卒
1973年=磐城高校(卒
1978年=東京造形大学デザイン科(卒
(1975年~1981年、昭島の外人ハウス:タシロコート#9で友人3人と暮らす)
卒業後はアルバイト(日魯畜産、等)しながらイラストレーター目指す。
2年以内にイラストで食えなければ、日魯畜産に就職を考える。(課長から現場に大卒(美大なのに)がいないので是非、社員になれと、強く勧められてた)
初期はエロ本のイラストばかりだったが2年近く過ぎたころ、その出版社が月刊中古車雑誌(くるまにあ)創刊。
月刊ゲーム雑誌(ゲームボーイ)創刊。それぞれ表紙イラストがレギュラーになり収入の基礎となる。
その後、小学館・スポーツ雑誌ナンバー・週刊ゴルフダイジェストなどのレギュラーなども得る。
30歳になり生活も安定すると、高校のころに目覚めたフォーク熱が再び再発。
仕事の合間に通った吉祥寺「のろ」で高田渡・中川イサト・中川五郎・村上律などの薫陶を受ける。
中川イサト師からイサジ式宝物マーチン000譲り受ける(¥20000x12か月払い)
※1991年:オムニバス・CDアルバム「グッドフェローズ」制作。岡嶋BUN善文と出会い意気投合。SSW鎌倉研の結婚披露宴余興バンドとして「ふ」演奏。大好評を得てバンド正式活動開始。
2000年前後「イサジ式」名乗り始め
「フィルモア井の頭街道」ライブ企画開始(休止中)
2013年「NO NUKES RECORDS 311」設立
フォーク者イサジ式、本格活動開始。
2016年頃、西川郷子(上々颱風)とニシカワMEETSフォーク(NMF)結成、不定期活動中。
2023年3月、5曲仕込みミニアルバム「風はまだ止まないが」発表。同月、イラストレーション展「音楽を絵で奏でてみる」開催(聖路加画廊)

あとがき
 今回のインタビューは、イサジさんから提案されたものでした。軽い気持ちで「いいよ」と答えたものの、改めて考えてみると、ボクはイサジさんのプロフィールをよく知らないことに気づきました。その代わりと言っては何ですが、彼の音楽作品はすべて聞いていたし、それほど多くはないけれども、絵も見ていました。近すぎない程度の友人だったからこそ、いささか不躾な質問も気兼ねなく向けることができて、却って良かったのかもしれないと、今になって胸を撫で下ろしています。
 かつてボクが送った手紙について、最後のところでイサジさんが触れています。手紙のことは、もちろん覚えています。寄贈を受けたソロ・アルバムへのお礼を伝える手紙に、イサジさんの作る歌について、ボクの思うところを添えたものでした。真面目に「ワタシの歌」を突き詰めていると感じたので、彼を励ましたかったのだと思います。
 イサジさんから依頼を受けて、最新アルバム「風はまだ止まないが」に、ボクはライナノーツを寄稿しました。ここに再掲させてもらいます。

 「人間は土地に結びついている。土地に印をつけて生きている存在である。死んだ人間の想いとつながっている」と、在野の思想史家、渡辺京二さんは、自著の受賞講演会の席上で語ったという。この一文を読みながら、ボクはイサジのアルバム3作目の表題曲「水は誰のもの 土は誰のもの」を思った。「人は水に生まれ、人は土に還る」もの、そしてその水と土は「未来からの預かりもの」なのだから、「声を上げるのだ/取り戻すために」と、彼は自らの依って立つところを歌う。
 イサジは、フクシマに生まれた。津波をまともに受け、今なお廃炉の工程さえ定まらない原発を抱え、汚染水の放出が行われる海に直面する地域の出身だ。2011年3月11日の震災をきっかけに、"これは真面目に唄わなきゃいかん"と、それまでのグループを中座し、ソロ活動を始めた。震災がもたらした甚大な災禍は、およそ日本人の誰もの目に焼き付き、耳に残る。あれから10年余を経ようが、これから何十年が過ぎようとも、記憶から消し去られることはないし、あってはならない。東日本大震災は天災であった以上に、人間の道理を破壊する人災でもあるからだ。
 そうと知ると、これまでのイサジが歌に記した言葉のさまざまに、改めて合点がいくかもしれない。帰れない町、帰れない人、祭りの消えた町、明るい未来のなれの果て、虚な誓いの言葉、怒りを掲げて進む人たち、災いはまだ続いている、などだ。彼の歌には、原発事故への怒りと、失われていく故郷への尽きせぬ想いが刻印されている。
 もちろんこれまでの歌の全てが、そうした"真面目"なものばかりではない。祭りのあとの夜の海をロマンチックに歌い上げ、黄昏時の裏通りをほろ酔いで歩く幸せをつぶやき、尽くせぬ夢を歌った若き日々を追慕する。胸の奥をチクリと突っつく歌を作らせたら、イサジは憎らしいほどの妙手の持ち主だ。
 そしていま、最新作が届いた。
 冒頭の表題曲「風はまだ止まないが」を聞いて、ボクは驚愕した。「風はまだ止まないが」と歌い、その後の沈黙がはらむ心情を、歌詞とサウンドが予感している。そこには、後ろを向いているようで、実は前向きでおおらかな決意がうかがえる。聞き手の胎内に、明るい炎を灯す響きがある。アルバムの全体は、彼の得意な作法を踏襲する構成だ。しかし、どこかしらうつむき加減なイサジは、もうここにはいない。彼は顔を上げている。新しい表現の地平に立ったのだろう。
 このささやかな短文が、アルバムを手に取る方への助けとなり、そしてイサジへの励ましとなることを願いながら、ここで筆を置くことととしよう。

 出来上がったばかりの音源をもらい、表題曲「風はまだ止まないが」を聞きながら、イサジさんが「人々が待つ広場」への手がかりを掴みかけていると、ボクは感じました。嬉しく思いました。今後に彼が作る歌が、より楽しみになっています。
 ユーモアが好きというイサジさんだけあって、インタビューは終止とても愉快な時間でした。その楽しさをうまくお伝えできていればいいのだけれどと、願うところです。(大江田 信)



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