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音楽家 佐久間順平に会った_4

 ゆっくり話を聞きたいと思っていた人がいた。さりげない振る舞いや、ふと発する言葉に惹かれた。自分の場所で生きているように見えた。どんな来し方をしてきたのだろう。覗きたくなった。そんな人たちの探訪記「あの人を訪ねる」。


 第四回には、佐久間順平クンに登場していただきました。

 佐久間クンとボクとは、高校で同級生でした。高校時代に二人が組んだデュオ「林亭」の活動は、休止期間を挟みつつ今も続いており、以来50年余の永き時を重ねました。
 そしてお互いの年齢は、70歳の古希になりました。この人生の節目のタイミングに、佐久間クンからじっくり話を聞いてみようとの思いから、このロング・インタビューがスタートしました。


 前号は、長年にわたってサポートを続けた高田渡さんから与えられた影響について、そして高校時代からの友人であり、映画監督として世界的な名声を得た小林政広クンの映画作品において、音楽監督として仕事をした経験を語ってもらいました。
 しばらく時間をおいて再度に行ったインタビューを、今回と次回にお届けします。冒頭は先のインタビューで、聞き残してしまった大切な質問からスタートします。高田渡さんから投げかけられた厳しい言葉を巡って考えたこと、さらにかつて作詞の断筆を宣言したこともある永六輔さんから詞をいただいた経緯など、晩年の永六輔さんと重ねた交友について聞きました。

前編の
「音楽家 佐久間順平と会った_1」はこちらから、
「音楽家 佐久間順平と会った_2」はこちらから、
「音楽家 佐久間順平と会った_3」はこちらから、ご一読ください。


映画音楽を巡って考える。

大江田:前回のインタビューで「TBSの朗読コンサート」の話をした時に、「映画につける音楽と、朗読コンサートでの朗読につける音楽って違うんだよ」って、言ってたよね。その違いを、もう少し詳しく教えてもらえる?
佐久間 : 1980年代後半ぐらいからかな、主題歌とか主題曲が、映画から無くなってきたと思うのね。昔は映画の主題歌や主題曲が、とにかくヒットした。「あの映画だったらこの歌」とか、「あの映画だったらこの曲」という風に。それが無くなってきたのは、どうしてなのだろうって思っていたわけ。最後にすごくいいなと思った映画音楽が「ニュー・シネマ・パラダイス」。音楽を担当したエンニオ・モリコーネって、すごくいいなと思っていたら、60年代から映画音楽をずっと作っていた人だって後から気がついた。その「ニュー・シネマ・パラダイス」を聞いていたらさ、録音自体はものすごく乱暴なんだよ。ヘッドホンで聞くとわかるんだけど、下手でソロを弾いていた第1ヴァイオリンの人の音がさ、ある箇所から急にセンターに振られてみたりさ(笑)、すごくびっくりするような乱暴な音作りをしているんだけど、そのラフな加減がものすごく良くてさ。あの「初恋」のテーマソングがいいなぁって思って。

佐久間 :「ニュー・シネマ・パラダイス」以降の映画では、音楽が印象に残らなくなったんだよね。ものすごく好きで見てた「指輪物語」なんかでもさ、1曲も残らないんだよ。あんな長大な映画なのに、主題歌が無くなったんだなと思った。主題歌や主題曲というのは、かつては映画の内容とともにあったように思うんだ。ところがいつごろからなのか、映画音楽は雰囲気を形作るだけのものになっちゃった。音楽として独立して印象に残ることが、無くなっちゃったんだよ。それが寂しいなって思う。そんな思いから、主題曲を作って、そこから発展させようかなと思って、小林政広の映画でいくつかやってみたんだ。
 TBSの「朗読コンサート」の場合は、朗読している後方に雰囲気作りとして音楽で背景を作るみたいな感じかな。動物写真家の岩合光昭さんの奥さんの岩合日出子さんが、アフリカのタンザニアのセレンゲッティ国立公園の近くに一年半ほど暮らした時に書かれた「アフリカ ポレポレ」っていう本があってね。それを題材にした時には主題曲を書いた。自分でもすごく良かったなあと自画自賛しているんだけど。


TBS朗読コンサートとは、TBSアナウンサーによる朗読に、生演奏による音楽、効果音、照明などがあてられたコンサート形式の朗読会。 女性アナウンサー有志により発足した朗読勉強会。その発表の場として発展してきた「朗読コンサート」は視聴者プレゼントとして抽選で毎回300人ほどが招待。ラジオにてその模様は後日放送された。毎回、構成演出 雁田昇・桂田實 音楽 佐久間順平・竹田裕美子 で続けられた。


大江田:佐久間がいろいろ考えて作っているのに、録音を終えたところで最後にここにもう1曲つけろと、小林が突然に我がままを言ったりしたんだね(笑)。小林と色々なぶつかり合いがあったりしながら音楽を作りつつ、佐久間の求めるところの映画音楽をやろうとしたんだな。
佐久間:うん、エンニオ・モリコーネみたいなのが、もしできたらいいなって思ったりもしたんだよ。
大江田:坂本龍一が語りおろした「音楽は自由にする」を読んでいたら、ベルナルド・ベルトリッチ監督の映画「ラストエンペラー」の音楽制作で随分と苦労した様子が描かれていた。急遽の依頼で2週間で必死になって作った音楽が、試写を観たら半分ほどしか使われてなくて、しかも事前に想定した場所には使われておらず、さらにズタズタにされていた。坂本は怒りやら失望やら驚きで、心臓が止まりそうになったんだって。
佐久間 : 映画ってさ、編集でもう如何様にも変わるからね。
 「春との旅」でね、孫娘の春との旅の途中の場面で、祖父役の仲代達矢さんが「今日は飲みたい」と言って夕食に酒を飲むシーンがあるんだけど、仲代さんが酒を飲む1人芝居を、ずっとしちゃうわけ。「ここは本当はさ、使うのは30秒ぐらいの予定だったんだよ。ところが3分くらい芝居してるんだぜ。どこをどう切りゃいいんだよ、これ」って言って、小林がこぼすんだよ(笑)
 「春との旅」を観ながら、この編集はどうなのかなぁとオレは思ったりしたんだけどさ、何となくだけどね。

FM番組に出演して、語った。

大江田:佐久間は、2021年5月に田家秀樹さんが司会構成をしているFM COCOLOの「J-POP LEGEND FORUM」というラジオ番組に出演している。「音楽評論家・田家秀樹が日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出す1時間」とHPで紹介されている番組。この時は、ひと月をかけて高田渡さんを特集する企画で、1回目と5回目は高田漣さん、2回目と3回目にベルウッドの創設者の三浦光紀さんが招かれ、4回目に「高田渡が探った自分のルーツ 佐久間順平とともに振り返る」という企画で、キミが招かれている。
 そして番組でキミが喋ったことがネット上に文字になって上がってるのね。

佐久間:ふ〜ん。
大江田:これを読んで初めて知ったことがあった。「前にライブ盤を出した時に渡さんから電話があったんですが、その時彼はお酒を飲んでいなくて。飲んでいない時の声がすごく冷たく感じられたんですよ。『CD聴きました、歌が聴こえてきません』と」として佐久間が語っているエピソードなんだ。
佐久間:(笑)。
大江田:ライブ盤とは、2004年に発表した「最初の花」のことだよね。

最初の花 ( 2004.06.01 / Ren’s Records / RENS-001)

佐久間 : うん。渡さんがね、そうやって伝えようって思ったこと、それが大事だなと思った。「良かったよ」とか、「まあまあだね」とか、「出来てよかったじゃない」なんていう言い方もあるわけでしょ。簡単だしさ、波風立たないし。そんな言い方だってあり得たはずなのに、真面目にストレートにドーンって応えてくれた。「歌が聞こえてきません」(笑)。すごいでしょ(笑)。
大江田:この事実は、田家秀樹さんのインタビューで公開するまで、佐久間はどこにも書いたり喋ったりしていないよね。
佐久間 : やっぱり亡くなったってことが、きっかけではあると思うんだよね。それまでは誰に喋るわけでもないしね。
大江田:高田渡を追いかけたいという田家秀樹さんの想いを受けて、佐久間が質問に答える。そして佐久間の答えを聞いて、田家さんがまた反応する。どういう思いで佐久間が林亭の「風」を作ったのかなど克明に語っていて、さらにオンエアされた曲も含めて全てが掲載されている。今まで読んだ佐久間クンのインタビュー中で一番面白かったけどな。
佐久間 : 田家秀樹さんが、下準備をちゃんとされているもんだからさ(笑)、全部知っていて聞いてるなって、すごく思ったんだ(笑)。
大江田:ちゃんとしなきゃって思いながら喋ってるのが、よくわかるよ(笑)。

「歌が届く」ということ。

大江田:渡さんから「歌が聴こえてきません」と言われたこと、そしてその後、佐久間はその言葉を背負いつつ、自分の中でどういうふうに考えてきたのかを聞きたいんだ。
佐久間 : 渡さんにとって、"自分に届く歌じゃない"っていうことだったんだろうね。直接そう言われたから、それは少なからずショックではあったけれども、でも、渡さんはさ、真剣に聞いてくれたんだと思うのね。ちゃんと聞いてくれて、こういう意見を言ってくれたんだって思ったんだ。
大江田:番組では、その後に「大事なことだなと思って。僕はそれを追求していきたいなと思ったんです」って、話を続けている。
佐久間 : そうそう。
 若い頃に、渡さんの歌に初めて触れたときに、何なんだろうこれ、すごいなって思った。要するにファースト・インパクトね(笑)。それってさ、少なからず誰にでもあってさ。例えば私はストーンズの方が好き、私はビートルズが好きとかさ、私は加川良が好き、私は高田渡が好きって、必ずあるじゃない(笑)。人に触ってくる歌っていうのかな、人に届く歌っていうのがあるんだなって思うのね。どのみち届かないんだったら、興味も湧かないわけ。届くからこその何がしかってのがあって、そこら辺に歌の秘密とか歌の真髄があるんじゃないかと思う。
 同じようなことを小林にも言われたんだよ。ちゃんとCD作ろうと思って、還暦の時に「明日の想い出」というアルバムを作った。こんなCDが出来たよって、小林に送ったわけ。そしたら小林からメールが来てさ、「佐久間の歌を初めて聞いたような気がする」って。あ、この野郎、渡と同じこと言ってるなって(笑)。あ、いけね、すごい汚い言葉で言っちゃった(笑)。

明日の想い出 ( 2013.2.27 / Forestraunt / SJOM-0002 )

大江田:佐久間クンはね、時間を経てから同じ質問を受けても、実は必ず同じことを答えるんですよ、本人は気づいてないかもしれないけど。タイミングが違ったら答えが変わって出てくる人ではないのね。この番組で喋っていた内容と、キミは全く同じことを、いま喋ってるんだよ。
佐久間 : へえ、本当(笑)?
大江田:佐久間クンには、整合が取れない発言は無い。ブレがないんだよ。気持ちの中の芯が、言葉と一緒に保たれてるんだろうな。自分の中で何らか確実な答えを持って、それを維持しながら音楽している人なんだと思うよ。
 いま言ってくれた「歌が届く」ことにおいて、歌詞とは、どういう意味合いを持っているんだろう?渡さんの場合は歌詞があって届いたのか、それとも歌詞がなくとも肉声が体に入ってきたのか。その点はどうなんだろうか?
佐久間 : ちょっと難しい命題だよね。
 言葉の意味を伝えるために、話し言葉を使って相手に伝えるわけじゃん。意味だけ伝えればいいんだったら、歌にする必要ないんだよ、言葉で喋ればいいんだからさ(笑)。ところが歌ってのは、言葉で喋るのとは違う全体性があるんだよね。
 例えばさ、英語の歌。英語の歌って、ボクらは直接的に意味がわかんないんだよ。ちょっとした言葉の端々とタイトルだけで雰囲気を捉えて、これきっとこういう歌に違いないと勝手に思って聞いていたんだよね。歌詞の意味もちゃんと追求しないといけないとは思うんだけども、例えば片岡義男さんが訳したビートルズの歌詞を読んでも、意味がよくわかんないんだ。永瀧達治さんが訳したフランスのジョルジュ・ブラッサンスの歌詞も、フランスの歴史を知らないと理解できない。翻訳を読んで、こういうことを歌っているんだろうなと思って、何となく理解したつもりにはなるけどね。
 日本語で歌を聞くと、クリアに意味はわかる。日本語で歌いながら、洋楽に近づけるっていうのかな、日本語には聞こえないような歌い方をし始めた人たちもいたわけだ(笑)。
 渡さんの場合は、言葉をそのまま放り出すっていう感じなのね。これがすごく衝撃的でさ。誰かになりたい、何かになりたいっていう憧れから、音楽にも絵にも文学にも、そうやって多くの人は入っていくと思うのね。この人はビリー・ホリデイ風だとかさ、この人はエルヴィス・プレスリー風だとか、この人たちは皆なボブ・ディラン風だなとか(笑)。だけど渡さんは、そうならないのよ。だれ風でもないわけ。それにびっくりした。そして、それを貫いてるってところに、さらにものすごくびっくりしたんだ。他の人と全然違うなって思って、興味が湧いた。

歌が抱えるもの。

大江田:前回のインタビューでは、渡さんは歌をあなたに届かせたいと思って歌っている、そこにいるお客さん1人1人に対して届かせたいと思って、お客さんに正面からきちんと向き合って歌ってる。どこか歌を虚空に向けて歌ってるわけではない。そうしたことを自分は強く感じて、「それだけはとにかくきちんとずっとやっていきたいと思った」っていう佐久間の発言があったのね。
佐久間 : うん。
大江田:その発言と、今の話とは繋がっていくと思う。そういう態度って、決して簡単ではないだろうと思うんだけど、どうだろう。
佐久間 : 歌ってさ、聞いている相手に届けるっていう即物的な一面と、天に向かって歌うという祈り的な一面と、両面があると思うんだ。ちょっと極端な例だけど、物語の内容を伝えるんだったらさ、講談でもいいわけじゃん。即物的に言葉が伝えられるだけじゃなく、言葉に感情が乗って届けられるっていうこと、それが歌たる所以だと思うのよ。メロディという感情に乗せて言葉を伝えるということかな。
 昔の中国では、言葉を作ったときに「書」にして書いて、それを箱に入れて守っていたんだって。培養するっていうのかな。まずは邪気から守り、ある時期が来たら取り出して、「この言葉はこういう意味で使えます」って公開したらしい。要するに、意味合いを持っているエネルギー体として、言葉が大事に扱われていたということなんだよね。
 今はね、言葉にはエネルギーがないなって、思ったりしちゃう(笑)。人にわかんないように、政治家がわざと横文字で言ってみたりしてね。何で横文字使うのかなって思うんだけどさ(笑)。それから憲法9条を読んで、敵基地まで攻撃できると語る政治家がいるけど、解釈を振りかざして乱暴に自説の方向に持っていくのがさ、もうとんでもなく不遜だとオレは思うわけよ。
 歌に乗せて言葉を発する時は、不遜ではあってはいけないし、祈りに近いものとして、歌とはどこかしら神に捧げてるものだ、ということなんだろうと思うんだよ。

「ひとつ、曲を書いてほしいんですけども」。

大江田:次に永六輔さんと佐久間くんの繋がりについて、聞きます。永さんと初めて会ったのは、いつなんですか?
佐久間:1990年に日本生命で保険を勧誘する一万二千人くらいの女性たちが横浜アリーナに集う全国大会が開催され、その際のアトラクションのコンサート・ゲストがさとう宗幸さんと森山良子さん、そして永さんだった。オレはさとう宗幸さんのサポート・ミュージシャンとして参加したのね。ちょうどその時、母親が危篤の状態で、前の晩から市川の病院に詰めていてさ、一晩ずっとベッドサイドで見ていた。朝になって母親の状態を兄妹に連絡して、それで車でそのまま横浜に行った。そしたら宗さんがさ、「永さん紹介するよ」って言って、永さんに紹介してくれたわけ。母親の危篤の日だからね、忘れないんだよね、そういうことって。それが初めてだった。
大江田:その日は紹介してもらう程度だったのかな。
佐久間:もしかしたら「自分もTBSラジオ関係の仕事もしています」みたいなことも言ったかもしれない。その頃は、TBSでアナウンサーの朗読コンサートの仕事を何年もやっていたのね。永さんの番組のアシスタントをしているアナウンサーが、朗読コンサートに出演していたこともあって、永さんが覗きに来てくれて、本番前に挨拶したりもしたな。
大江田:15年くらい前のことだったか、林亭のCDを永さんがTBSラジオの「土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界」でオンエアしてくれたことがあったんだ。
佐久間 : うん。
大江田:林亭を選曲したいと永さんから伝えられたスタッフが、「今日、林亭が番組でかかりますよ」って連絡をくれた。
 永さんて、ラジオでプロモーションすることを嫌う人だよね。自分の本の紹介とか、一切しないでしょ。林亭も、プロモーションとして紹介したくないんだろうな。番組を聞いていたら、永さんはまず自分と佐久間順平の関わりを長々と喋るんですよ。こうして知り合って、彼とはこうして一緒に活動していて云々て。
佐久間:ほんと?
大江田:大江田信は、あの若山弦蔵さんの「バックグラウンド・ミュージック」で選曲を担当している。「こういう2人がこうやってバンドやって歌ってるんですよ、聞いてみましょう」みたいな感じだった。とにかくさ、永さんが林亭をオン・エアするための正当性を一生懸命に説明してくれるわけ(笑)。
 自分がなぜ選曲したのかってことは、永さんは言わない。照れくさいからかもしれない。何というか、ちょっとしたTBSラジオ噺に仕立てて喋ったのね。曲は3分位なのに、その前の前振りを永さんが10分ぐらい喋ったんだよ(笑)。
佐久間 : なるほどね(笑)。
大江田:佐久間クンが永さんが作詞した「はるなつあきふゆ」に曲を書いたのは94年だよね。永さんと初めて会って3年も経たないうちに曲を書いているんだけど、どんな経緯だったんですか?

佐久間 : 永さんは1969年に作詞家を辞めるって宣言しているよね。その時、最後に詞を提供していたのが、デュークエイセスさんだった。それから25年経って、NHKの「新ラジオ歌謡」でもういちど歌を作ろうとなって、デュークエイセスさんに詞を書いたのね。
 その頃はシングルCDでね、もりばやしみほさんが曲を書いた「あなたが歌えば」がA面で、オレが書いた「はるなつあきふゆ」がB面扱いだね。
 (永さんの口調をまねて)「ひとつ、曲を書いてほしいんですけども」(笑)って感じで電話があって、それで「僕でいいんですか?」って言ったら(再び永さんの口調をまねて)「はい、お願いします。FAXで送ります」(笑)だって。そして「はるなつあきふゆ」の詞が届いた。詞を読んでから、「言葉尻とか、この通りじゃないとまずいでしょうか?少し足したり引いたりしてもよろしいでしょうか?」って電話したら、(再び永さんの口調をまねて)「はい、自由にやってください」って言ってくれたの。
大江田:じゃあ、永さんが書いた原詞と違うの?
佐久間:原詞は「花がさいて 花が散った」だったのを、「花がさいて 花が散ったよ」にして、「雪がふって 雪がやんだ」を「雪がふって 雪がやんだよ」にして。ここに「よ」を入れてもいいでしょうか?って、電話して聞いたのね。
大江田:初めて会ってから3年の間に何もなければ、こうして曲の依頼を受けることはなかったよね。
佐久間 : TBS局内ってすれ違ったり、朗読コンサートにちょっとだけ顔を出してくれたり、小室等さんを通してオレの認識があったんだろうと思うのね。新しい人にどんどん声を掛けるというのは、それって永さんのスタイルだしね。
大江田:確かにそうだね。

永さんは「どうぞご自由に」と言った。

大江田:そういえば、永さんから手紙が届いた日の夜は開封できなくて、翌朝早く起きて散歩して帰ってきて、気合入れて封を切ったって言ってたよ。
佐久間:うん、そうだよ。「明日の想い出」の詞をもらった時のことね。
大江田 : 「明日の想い出」は、佐久間クンからお願いして、詞を書いてもらったんだもんね。
佐久間 : そうそう。
大江田:どういうふうにお願いしたの?
佐久間 : 永さんがパーキンソン病だから、永さんの話を聞こうと小室等さんが声をあげて、東中野のポレポレ座で「小室等のコムロ寄席」を始めたのね。
大江田:2010年から始まっている。
佐久間:定期的に5年ぐらいやったかな。そうか、亡くなる前年まで永さんは出演してくれたんだな。
 「お前は、スケジュールが空いてたら必ず来い」とオレは、小室さんから言われていた。会の前半は、永さんの話を聞く。小室さんが質問したことに、永さんが面白おかしく答えるのね。後半は永さんの作ったいろんな曲を、小室さんもオレも歌う。「黄昏のビギン」とか「遠くへ行きたい」といった有名な歌も、そうじゃない歌も歌ったりしてね。
 その「小室等のコムロ寄席」のときに、そうだ、やっぱり永さんに詞を頼んでみようと思いついた(笑)。面と向かって、「お話があります」とはちょっと言えないから、お手紙を書いたわけ。「このほど還暦を迎えるにあたって、ちゃんとしたCDを作りたいと思っています。そのCDの中心となる歌として、私のために詞を書いていただけませんでしょうか」って手紙を書いて、往復はがきも入れて切手も貼って。「これは後で読んでください」ってポレポレ座で渡したんだ。そしたら「わかった。やってみるよ」と書かれたお返事を、もらった。

佐久間:ほどなくして2011年3月11日の東日本大震災が起こっちゃって、「今は、ちょっと書けなくなった」など、色々なお葉書をもらったのね。


佐久間:でも結局、半年後ぐらいの秋だったかな。封書が届いたんだ。
 まだ夜が明ける直前ぐらいに、1人で散歩に行った。真っ暗の中、歩いてひと巡りしてきた。だんだん夜が明けてきて、そして自分の机でお手紙を開封した。そしたら「明日の想い出」っていうあの歌の歌詞が入ってたんだよ。
 ただね、永さんからもらった詞には、「みんな明日の想い出」なんて言葉はないし、「明日の想い出」というタイトルの歌じゃなかった。
 永さんが書いてくれたのは、みんなすべてが思い出という内容の歌詞だったんだよ。オレは、どうしても懐かしんでいるだけの歌にしたくなくて。それで無理やりさ、「みんな明日の想い出」って言葉を、歌詞に入れちゃったんだ。「明日の想い出」って、すごい不思議な感じでしょ。永さんって、不思議な感じが好きに違いないと思ってもいたんだ。
 そもそも永さんって、歌のタイトルを別に書くなんてことはしないの。そんなの変だっていう人だから。それは絶対やらせないんだよ。「上を向いて歩こう」は、「上を向いて歩こう」という言葉から始まる歌でしょ。それをタイトルにする。必ずそうしているんだよ。「黄昏のビギン」の歌詞は、中村八大さんが書いているから、いつもの永さん式のタイトルじゃ無いんだ。
 永さんから「どうぞご自由に」って言われたし、「御自由に」と書かれたお葉書ももらっていたし、オレは黙ってはこういうことをしないはずなんだけど。永さんが書いてない言葉を歌詞に書き込んで、しかもタイトルに持ってきちゃって、オレはずいぶん不遜なことをしてるんだよ。


大江田:そういえばその後、2013年に開催された佐久間の還暦コンサートに、永さんは快く出演してくれたよね。あの時はもう永さんは、車椅子だった。
佐久間:会場のStar Pine's Cafeの階段を、地下まで車椅子の永さんを降ろすのが大変だった。あそこはエレベーターがないじゃん。だからスタッフみんなで降ろしたんだよ。上げるのも大変だったな。
大江田:ステージでは永さんが、自分のリハビリの体験談を話した。あれは最高だったね(笑)。


佐久間クンの還暦コンサートで永さんが話されたエピソードは、永さんの在宅ホスピス医としてケアされた内藤いずみ医師のホームページに、このように掲載されています。

永さんは、病院でリハビリを手伝ってくれたジャカルタ出身の青年の話も披露してくれた。ある日彼が「『上を向いて歩こう』という歌を知っていますか? この曲を歌いながら歩きませんか?」と提案してきたという。
「それで『そんな歌知らない』と言ったら、青年が『ウソでしょう?有名ですよ。では、僕が歌います』と。ここで嫌な予感がしたんです……。
病院の廊下を若者が歌いながら歩き、その後ろを僕がトコトコ歩いてく。するとみんな見ちゃいけないものを見たような顔に(笑)」
『上を向いて歩こう』は、永さんが28歳のときに作詞した、日本人なら誰でも知っている名曲。担当医にそのイタズラを注意された永さんは、「翌日、『実はよく知ってる。僕がつくった』と白状したんです。すると、彼が『ま~たぁ、うそついて』って(笑)」



「音楽家 佐久間順平と会った_5」に続く。

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