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音楽家 佐久間順平と会った_2

 ゆっくり話を聞きたいと思っていた人がいた。さりげない振る舞いや、ふと発する言葉に惹かれた。自分の場所で生きているように見えた。どんな来し方をしてきたのだろう。覗きたくなった。そんな人たちの探訪記「あの人を訪ねる」。


 第四回には、佐久間順平クンに登場していただきました。

 音楽で生きていこうと決意し、高田渡&ヒルトップ・ストリングス・バンドを経てさとう宗幸さんのサポートを担当、さらにまた学生時代から続いた高田渡さんとの付き合いのあれこれを聞きました。

(笑)という文字を使いすぎるのもどうかと思って少しは控えましたが、佐久間クンの語り口には、愛の溢れる(笑)が絶えませんでした。心に(笑)を補いながら、お読みいただけると幸いです。

 前編の「音楽家 佐久間順平と会った_1」は、こちらからご一読ください。


音楽の道を選ぶ。

大江田: ツアー中の北海道に親から電話がかかってきても、毎日がものすごく楽しいし面白いし、そういう人生の方がいいって思って、佐久間は音楽の道に進んだ。渡さんは、佐久間に音楽の道を選ばせた責任を感じてたんじゃないかと想像するんだけどさ。ヒルトップ・ストリングス・バンドを始めたのも、一緒にバンドをやりながらある程度のギャラを佐久間に補償してあげないと、申し訳ないって気持ちを持っていた気がするんだけど。違うかな?
佐久間:それは考えてなかったと思うね。武蔵野タンポポ団じゃないけど、渡さんは77年頃に、もういちどバンドをやってみたいって思って、吉祥寺のシェーキーズでバンジョーとベースを弾いてたキヨシ小林大庭珍太を見つけてきて、じゃあ、4人で演るかということになったんだよ。ついては練習しよう、そしてなんか曲を作るかって、ひねくり出したのがヴァーボン・ストリート・ブルース。ひねくり出したって言ったって、実は原曲があるんだけどさ(笑)。
 高田渡&ヒルトップ・ストリングス・バンドのアルバムのタイトルがさ、「ヴァーボン・ストリート・ブルース」(1977)なんだよ。BourbonはBから始まる単語だからさ、バーボンが正しいんだよ(笑)。それがさ、誰も気がつかない。もう笑っちゃうよね(笑)。

高田渡&ヒルトップ・ストリングス・バンド ヴァーボン・ストリート・ブルース
ヒルトップ・ストリングス・バンド @ 1977
アルバムに封入されていた写真

大江田:定期的な収入という点では、三鷹で一人暮らしを始めてから、最初のまとまった仕事かな?
佐久間:でも依頼なんて、あんまりないからね。渡さんが仕事を取ってくれて、ギャラは4分の1に分けてたんだけど、渡さんはすぐに食えなくなる。だから1年ちょっとで、雲散霧消ってやつだね(笑)。
大江田: 北軽井沢のレストランで、夏ごとにレギュラーの仕事が入ってたって聞いたけど。
佐久間:あれはちゃんとした仕事っていうよりも、避暑を兼ねてみんなでワイワイガヤガヤ合宿してるようなもんだね。バージニア・グリーンってステーキ屋さんがディナーを食べているお客さんに演奏を聞かせる、そういうライブ。どっちかっていうと食事がメインで、それの添え付けみたいな感じで演奏がある。夏の間じゅうね、毎日のように演奏してた。宿泊施設もあってね。たまに休んだりして。面白かったね。
 渡さんって無鉄砲だからさ。車の運転をオレにもやらせてって、言うんだよ。まだ車のギアがマニュアルの時代だよね。バージニア・グリーンの私有地が結構広いからさ、そこを運転するには法律的にも問題ないんだけど。ブレーキの踏み方を知ってるのかな、この人っていう感じでさ。一通り教えたんだけど、たぶんブレーキがわかんなかったんだろうな、車ごと田んぼにドーンと突っ込んじゃって(笑)。でもそれほどの段差じゃないから、何とか引き出してさ。もう、無茶苦茶なんだから。面白いよね(笑)。

佐久間:あとはもう毎晩のように麻雀よね。
大江田: 渡さんって、麻雀が強かったけ?
佐久間:強くはないね。いつのまにか覚えてさ。あの人、覚えたらさ、何でも面白がってはまるんだよ。元明星学園の木幡さんって先生とかと一緒に、吉祥寺の雀荘で麻雀してたよね。でもどうしてもさ、なんつうのかなあ、"気合だあ"みたいな感じになっちゃうんだよ、理論的じゃないからさ(笑)。あんまり勝てないんだよ。
 オレが大学4年の北海道ツアーの時、中川五郎さんと渡さんと3人でやる麻雀の時にはね、五郎さんは麻雀の麻の字も知らなかったんだ。もう無理やり、ツアー中に覚えさせたんだ。これこれこうやると大体揃うでしょう、そしたらこれで上がりだからって(笑)。そしたら五郎さんもよくしたもんでさ、上がろうとする時は必ず「中」で待つの(笑)。中川の「中」。最高なんだよ。
 そうそう、出版社にもバイト行ったことがあったな。クイックフォックス社の編集部だった。音楽書の編集のお手伝いをしたり、取材をした。伊藤銀次さんに取材させてもらったよ。

 2024年1月14日 東京・下北沢ラカーニャに再集合したヒルトップ・ストリングス・バンド
下からキヨシ小林・高田漣・大庭珍太・佐久間順平

さとう宗幸のサポートを始める。

佐久間:そのうちヒルトップ・ストリングス・バンドも終わって、オレはさとう宗幸さんと会うんだ。
大江田: さとう宗幸さんとは、どうやって会ったの?
佐久間:宗さんは、仙台でライブハウスの雇われ店長やってたのね。70年代の半ば頃かな。その頃に知り合って、田中研二さんと一緒に遊びに行ったんだ。
大江田: へえ、そうなんだ。
佐久間:鈍行の夜行列車で仙台に早朝着いたら宗さんが待っていてくれて、焼きそばをご馳走になったりしたよ。その後、渡さんも宗さんと知り合った。
 宗さんが自主制作レコードを作ることになって、その手伝いで、渡さんはマンドリンとギターを弾いた。「バラ色の人生」(1976)っていうアルバムだね。

さとう宗幸 バラ色の人生

佐久間:そのうち自分でライブハウスをやるって言って、宗さんが仙台の国分町に店を作るんだよ。でもさ、あの人の性格上、客からきっちり金を取ることができなくて。ツケ、ツケみたいになって、1年経ったら借金だけ膨らんで、すぐ閉店になっちゃった。そこの店でもヒルトップで演奏したことがあったんだ。
 その後、宗さんは1978年に「青葉城恋唄」でキングからデビューした。キャンペーンで、いろんなとこ行ってたんだろうね。オレがたまたま名古屋にいた時に、宗さんが地下街でのラジオの公開生放送に出るっていうんで、遊びに行ったのね。そこで、久しぶりに再会して。そしたら宗さんがさ、今度一緒にやろうよって言ってくれた。うん、わかったなんて、口約束だけ。そのうち本当にさ、所属するシンコー・ミュージックからオファーが来た。そしてコンサートを手伝うようになったんだ。宗さんがデビューして2年目、1979年だったな。
 それまでの最初の1年間は、宗さんのギター弾き語りとピアニストとヴァイオリニストの3人編成でやってたの。そのヴァイオリニストは手練れで優秀な人で、宗さんの仕事を終えてからヨーロッパに留学して、ヨーロッパのオーケストラのトップをやるような人で、ソリストでもある人なんだけど。2年目から自分が入るようになって、ピアニストとオレという布陣になるわけ。
大江田: ピアニストは、江草啓介さん?
佐久間:そうそう江草さんだったと思うよ。江草さんは、オレより15才先輩。
大江田: すごい勉強になったでしょう?
佐久間:そうそう。何でも出来る。ジャズもできればシャンソンもできれば、何でも。
大江田: コード感とかってすごいよね。
佐久間:うん。あと歌に対するおかずの入れ具合ね。
大江田: ああ、対旋律というか、フィルインだね。
佐久間:うん。ちょっとしたこととか、激しいこととか。すごいなあって、勉強になったな。
大江田:どれくらいの本数の仕事があったの?
佐久間:月に5本ぐらいあったんじゃないかな。年間60本くらいは演ってたと思うよ。
大江田: サラリーマンの新入社員くらいは、稼げたのかな。
佐久間:いやもっと稼いでたと思うよ。宗さんが始まってからはね。
大江田: 宗さんの前には、森田童子さんなどの仕事をしてたんだよね。森田さんって俗にキャラクターがよくわからない人で有名だけど、実際はどうなの?
佐久間:得体が知れないってこと?
大江田: うん。
佐久間:そういう面もあるけど、まあ普通な感じの女性ですよ(笑)。
 ただあのね、なぎら氏も言ってるでしょ。ある時に森田童子と一緒のコンサートが終わってホテルに戻ってきたら、彼女は少し疲れてる感じでベッドに座ってた。みんなで飲みに行くことになって、森田童子も誘った。「森田さん、一緒に行く?」って聞いたら、「いえ、私は結構です」って返事だった。そしてさんざん飲んで帰ってきたら、なぜか部屋のドアが開いてんだよ(笑)。出かける前とまったく同じ格好で森田童子がいたもんで、「こいつは何だっ。ぎょっとした」って言うんだよね、なぎら氏は(笑)。
 確かに人が死にそうな歌でもあるんだけど、だけど、ものすごい特異だなと思った。他にはない世界観と感性がさ、これはすごいなって思ったよ。
大江田: 宗さんとやるようになって、生活が変わって来たのかな。
佐久間:少しずつ生活が成り立ってきたっていう感じだね。音楽で食っていけるんだなって思った。
大江田: 宗さんのチームに入って、何を期待されたんだろうね。
佐久間:なんだろうね。まだ若いから、あの頃はギターとマンドリンとバイオリンと、3つ担いで廻ってたな。ギターは重たいハードケースに入れてた。便利な大きいバッグがないからさ、軍隊用のカーキ色のバッグの中に楽器とあれこれ詰め込んで背負って、ギターを手に持って行くわけ。曲によって楽器を変えたり出来たし、それはちょっと便利だったかもしれないね。
大江田: 宗さんにしてみると、年上のミュージシャンの方たちに比べると、佐久間とは気安く話ができて、もちろん音楽的にも自分の希望に応えてくれるっていう信頼があったんじゃないのかな。その頃からでしょ、ゴルフを始めたのも?
佐久間:宗さんに誘われてね。
大江田:宗さんのツアーでは前日入りしてゴルフやって、夜はちょっと軽く飲んで、翌日ライブだなんて、27歳ぐらいの時に佐久間が言ってたからさ。すげえ贅沢だなってオレ思ったよ(笑)。
佐久間:宿から朝早く出てゴルフ場行って1ラウンド回って、それでギリギリで会館に着いてさ。もうスタッフがセッティングしてるじゃない。そこで1、2曲だけリハーサルして、本番やる。それで飲みに行って、寝て、朝早く起きてゴルフ場に行って(笑)。5日間のツアーだと、それを5日間ってやってたね(笑)。宗幸さんはその頃から、ゴルフにハマってさ、何かにつけてゴルフばかりやってたよ。

高田渡との付き合い方。

大江田:渡さんとは、その後も、付き合いが続いたんだよね。
佐久間:ライブを手伝ってくれって、言われたりしてね。
大江田: 電話がかかってくるの?そういえば、そういう時って「佐久間さん」とかって言うでしょ、あの人(笑)。
佐久間:あのね、飲んでない時と飲んでる時が、ものすごく違うんだよ(笑)。違いすぎるほど違うんだ(笑)。
 飲んでて電話があった時には、「あなたの高田渡です」なんてうちの奥さんに言っちゃってさ(笑)。すると奥さん、「ああ、あたしのじゃないわよ」って答えるんだよ(笑)。
大江田: (笑)飲んでない時は?
佐久間:「あ、佐久間さんですか。何月何日、空いてますか。そうですか。じゃ、よろしく」、ガチャン!それで終わりだよ。10秒くらいだね(笑)。
大江田: 移動の電車のチケットの用意とかは、どうするの?
佐久間:どうだったっけかな。日時と集合場所の連絡がまた来たり、渡さんがチケットを買ってたり。まあ、別に問題なかったよ。
大江田: 余談だけどさ、つい先日の林亭のツアーの移動スケジュールをまとめた佐久間のメール見ると、もう完璧だったんだよ。こりゃ、佐久間に頼めば、何でもできるなって思ったよ(笑)。申し訳ないなあと思いつつだけどさ(笑)。
佐久間:(笑)。
大江田:2001年の春先からテレビで放映されたキンチョー120時間用蚊取りマットのCMの撮影の話を、聞きたいんだけど。映像を撮っておいてあとから音楽を入れるんじゃなくて、映像も音楽も同時に収録したんだって?
佐久間:そうそう。スタジオに行ってみたら、撮影機材とマイクがセットされていたのね。それで楽屋で、「渡さん、どんな感じ?」って聞いたら、「ええっとぉ」とか言うのよ。「譜面は?」って聞いても、譜面なんかない。「ええっとさ、こんな歌」って言いながら、歌うんだ(笑)。思わず「えっ?」って聞いたよ(笑)。「ちょっと待ってよ。詩があって、それをこういうふうに歌うと何秒とかさ、そういうたたき台はないの?ディレクターと話を詰めてないの?」って聞いたら、ないんだよ(笑)。
大江田:(笑)渡さんの問題でもあるけど、制作サイドの準備不足でもあるよね。
佐久間:ミュージシャンだから、そういうのはちゃんと作って来るだろうぐらいの感じなんだよ、向こうは。
大江田:その10年くらい前にハウスシチューのCM音楽を制作したスーパーミューザックの高橋信之さんの仕事じゃないの?
佐久間:違うよ。関西電通が代理店として入っていて、制作会社も違う。
 とにかく渡さんに「どんな感じ?」って聞いたら、歌詞もないし、もちろん譜面なんてない。「ええっ、ちょっと待ってよ」って言って、ディレクターを呼んでさ、「今日はどんなパターンを、どのぐらい取るんですかね?」って聞いたらさ、15秒3種類と30秒3種類、計6パターンを撮るんだって言うんだよ(笑)。「ああ、そうですか。じゃあね、今からちょっと準備しますので、全員一時間待ってください」って(笑)。
大江田:(笑)それを佐久間が頼んだの?
佐久間:だってさ、アリちゃん、横で笑ってんだもん(笑)。しょうがないからさ、「渡さん、作ろう!」って言って。「ああ面倒だ。蚊取りマットの取り替えは。ああ面倒だ」って歌詞で、イントロを入れてみると15秒、おっOKだ(笑)。そんな感じでさ、それから1時間で3曲作ったんだよ(笑)。歌詞もメロディも違う3曲をね。それぞれ15秒パターンと30秒パターンで、全部で計6パターン。それで出来た!って言いながら、書いた譜面をコピーしてもらった。それをアリちゃんに渡して、こんな感じでねって頼んで(笑)。オレとアリちゃんは、隣の家の窓から演奏するわけ。渡さんは、手前の家のちゃぶ台に座ってさ、空見ながら歌ってるんだ(笑)。これを全部、同録したのね。
大江田:(笑)いまどき珍しいよね。
佐久間:珍しい。臨場感を出すためだったのかもしれないけどね。
 ちゃぶ台にビールが1本あってさ、瓶に貼ってあるラベルは、撮影用のダミーだったんだけどさ、中身は本物だったんだよ(笑)。撮影が進むと、だんだんとビールが減ってくんだ(笑)。もちろん渡さんも、最初はものすごい緊張して歌ってるわけよ。そのうちだんだんさ、陽気になってきちゃってさ(笑)。少しずつほころんでいくのがわかるんだよ(笑)。
 でね、1曲目が終わったところでさ、「2曲目はどんな感じだったっけ?」って小声で聞いてくるんだ(笑)。
大江田:渡さん、覚えてないんだ(笑)。
佐久間:もちろんだよ(笑)。
 7時ぐらいに川崎のスタジオに着いて、すったもんだが9時ぐらいまであって。9時から収録始めて3時ぐらいに終わった。ああ、終わったと思ったらもう、もうくたびれ果てて(笑)、「帰ります!」って言ってさっさと帰ったんだ(笑)。
大江田:佐久間にはさ、そういう制作補助的なギャラは加算されないの?
佐久間:まあ、ないね。でもスタジオで演奏する時のギャラの金額じゃないけどね。
大江田:これだけ助けてくれたんだったら、渡さんのギャラ減らして佐久間に払わないとまずいなあって、プロデューサーには気づいて欲しいけどな。渡さんの仕事に、欠くべからざる人物なんだもん(笑)。
佐久間:オレはさ、もういいよみたいな感じだよ(笑)。

大江田:それでも渡さんの仕事は、それからもやるんだよね。
 「タカダワタル的」(2003)の映画で、渡さんが新横浜で新幹線を降りちゃって、会場になかなか現れなかったコンサート収録の場面を思い出すんだけど。 あのときも佐久間が現場を走り廻りながら譜面を書いて、リハーサルを仕切ったよね。
佐久間:あの時ねえ、やらかしたなと思ったんだ。つまり、映画を面白く可笑しく見せるためにわざと画策して、バックれたんだな。ああ、やっちゃったなあって思った。
 途中で消えるのを防ぐために、映画スタッフと一緒に新幹線に乗って、吉祥寺には息子の高田漣クンが待ち受けてて、漣クンがライブ会場に連れてくるっていう段取りだったのに。でもそれは映像的には全く関係ないと思うんだよ(笑)。
大江田: 関係なかったね、映画を観ていても。
佐久間:だってそんなエピソードを、入れようがないんだからさ(笑)。
 「待ち合わせ場所に来ません」って、漣クンから連絡が入ったのね。こっちはこっちで、とにかく準備だけはしておこうと思った。冒頭で劇団東京乾電池柄本明さん、ベンガルさん、綾田俊樹さんの3人が、1曲づつ歌うことになっていた。それも事前の打ち合わせもなくて、それぞれ自分のうたいたい歌を現場で言うから、その譜面をまず書いた。そのあとに今日の渡さんが歌うだろうメニューを作った。オレが持ってる渡さんの曲の譜面を揃えて、「これをバンドの人数分コピーしてね」ってスタッフに渡した。コピーが揃ったら、バンド・メンバーと一緒にリハーサル。まずは劇団東京乾電池のパート、そして渡さんのパート。こうして全曲リハーサルしたんだ。
大江田: 今の話には、本来であれば事前に終わっていなくちゃいけないこともあるものね。渡さんが不在のなかで、佐久間が率先してリハーサルしてくれて、ああ、助かったって映画のスタッフは思ったろうな。
佐久間:そしたらさ、いい機嫌になって、ヘラヘラして渡さんが会場に入って来た。もう酒が入ってるからさ。なあ、それって、どう思う(笑)?
 「渡さんね、実はね、こういうメニューでリハーサルやっておいたけど、どう?」って聞いた。こっちもさ、機嫌が悪いよね。そういうのはさ、渡さんは感じとるから(笑)。
大江田: 敏感だよね、あの人は(笑)。
佐久間:そしたらさ、「うん、これでいこう」って言うんだよ(笑)。あの時も、くたびれたなあ(笑)。
大江田:あのライブ、すごくいいけどな(笑)。
 やっぱり佐久間が一番、最後まで渡さんのそばにいてあげたんだろうな。

高田渡の歌。そして歌の届け方。

大江田:渡さんは、若い頃はお酒を飲まなかったよね。京都に住んでいた頃は、珈琲を飲んでた。それがいつしか飲むようになった。かつてのスタッフから聞いた話では、渡さんは実はすごく緊張してしまって、ステージに上がるのが怖いタイプだと言うんだよね。そうならない自分にするために、飲み始めたんじゃないかって。
 ビートルズのジョン・レノンはステージ恐怖症で、ライブの1曲目はメイン・ヴォーカルは歌わない。ほぼポールが歌う。ジョンが1曲目を歌ったのは、あれだけの数をやっていても、1回しか無いらしいんだよね。ニコニコ笑って演っているように見えて、ジョンはステージがすごく怖い。そんなエピソードを知ってから渡さんを振り返ると、もしかしたら、その推測は当たっているんじゃないかと思ったんだけど。
佐久間:おそらく緊張しいだとは思う。ふてぶてしく演るために、不機嫌な風に演るために、酒を飲んでたなという感じはする。酒を飲むと、「ふん」とか言いながらさ(笑)、ぼそって言って、それで受けるともう安心して出来るんだよ(笑)。オレはすごく面白いんだぞと見せるために、秘密を抱えたまま、あからさまにしないようにして演って帰る。そうしながら、自分なりのかっこよさっていうのを貫き通す。そういう感じは、すごくしたけどね。
 要するに緊張した状態で演りたくなくて、もっと浮遊した感じで、さっとやってみせる雰囲気が欲しいから酒を飲む。最初はさ、その状態になればいいので、そんなに沢山は飲んでないんだよ。
 もう一つには、自分の心が定まらないままに歌い始めるのが嫌だ、そういう気分では歌いたくないという想いがすごくあったんだと思う。"ライブやりたくない症候群"みたいなものね。で、そいつを吹き消すために、飲んでたかな。
 ところがある時点から、臨界点を超えちゃうことが始まった。本番はもう全然駄目。そういうことが続いたんだよね。アルコールのコントロールがうまく効かなくてさ。ただただ飲みすぎちゃったりしてね。だらしないことも何回もあるわけだけど。
 今日は臨界点を超えたなとか、ちょっと手前だなとか、今日は良いステージになるなって、すぐわかるんだよ、始まる前に。
大江田: なるほどね、長く一緒に演ってるとわかるんだね。
  「高田渡に会いに行く」の本の中で、なぎらさんと佐久間が喋ってる話で最も感銘を受けたのは、高田渡は歌がうまいってことを、キミが説明している箇所なんだ。渡さんは歌いすぎない、あるいは言葉を置くのがうまい。この点について、学んだことが多かったと言ってる。
佐久間:簡単に言っちゃうとさ、歌だけで成り立ってんだよ。楽器がなくたっていい。歌を前にドーンて出すんだ。歌がまず聴衆に届くんだよ。歌手って、うたって届けるじゃない。響かせて届ける。渡さんは、違うんだよ。ああいうふうに正面から、ボクサーのパンチでガン!みたいな歌は、初めてだった(笑)。ものすごく特異でさ、あんなうたい方をする人は誰もいないね。1人だけ似てる人がいるなと後で気づいたのは、最後の瞽女さんと言われた小林ハルさんだな。CDを聞いてみたら、渡さんとそっくりなんだよ。瞽女さんてね、いろんな土地の物語を採集しては、別な土地で口説きものをやるわけだ。
大江田: 門付芸に近いよね。
佐久間:うん。雪の深い地域の農家とか、地域の庄屋さんに呼ばれたりして宴席の場でやるんだけど、芸者さんみたいに舞をまってみたり、小唄みたいな心地良いものをうたって聞かせるのではない。こんなことがあったんだという物語を、ガーンってうたうんだよ。彼女たちが、どういう訓練したかっていうと、冬の河原に立って、声を出し続けるんだって。声を何回も潰してつぶして、自分の声を手に入れる。そして演じる。その話芸がさ、渡さんの歌と同じように聞こえた。こんな人は、そうそういないなと思ったんだよ。
 かつて小林にね、加川良と高田渡とどっちが好きかって言われたことがあったじゃない。加川良の方はさ、耳心地がいい。音楽的だし、過去にグループサウンズもやってた人だから、ポップスの臭いもあるしさ、弾き語りであってもリズムのノリもいい。高田渡っていうのはさ、何だろうこれは?ってなるわけだよ。面白いよね。
大江田: 渡さんの体に入っているビートって、4ビートだよね。
佐久間:4ビートというか、1ビートだよね(笑)。「抜けるような 空の下で おいら歌う」(と、高田渡的なビートで歌う)(笑)。
大江田: そうかもしれない(笑)。加川良さんには、8ビートを感じるよね。
佐久間:あの人は16ビートも感じますね。
大江田: 渡さんから電話魔をされたり、いろんなことされたって未だに聞くんだけど、皆んなが渡さんのことを好きだって言うよね(笑)。面白いね。
佐久間:それはね、渡さんがやっぱり人間のことが好きだったからだと思うんだよ。そのことがね、皆んなのそういう気持ちを生んでいる。迷惑かけられたり、いろんなことが起こってもさ、やっぱり渡さんを好きなんだよね(笑)。

はっきり言って、じじいになりたかったんだ(笑)。

佐久間:実はさ、渡さんは酒好きじゃないんだ、多分ね。味をわかってない。飲み方がすごく変でさ。食べ物でも、あんまり味をわかってなかったんじゃないかな。味わってないんだよ。味覚障害じゃないかなと思う。酒は、あの酔い具合が嬉しいわけ。少しずつ減ったりしないんだよ。美味しいから「おかわりください」ってオレが言うとさ、「オレも」なんて言ってガーッ飲んで「おかわり」ってやるんだよ(笑)。
大江田:あまり良くない飲み方だよね(笑)。
佐久間:「つまみを食べなよ」って言ってもさ、食べないんだよね。つまみ食べながら、ちょっと飲んで美味しいなっていう飲み方じゃないんだ(笑)。酔い具合が嬉しいわけ。
大江田: 老成した姿になりたかったんじゃないか、老成したかのように自分を振る舞わせたかったんじゃないかって、思うんだけど。
佐久間:はっきり言って、じじいになりたかったんだ(笑)。人が大好きだったし、歌も大好きだったし、音楽が大好きで、文学が大好きで。早くじじいになりたかったんだよね(笑)。
 最後に会った時はさ、オレ、喧嘩した。
 映画の「タカダワタル的」(2004)の演奏部分のトラックダウンをしてるスタジオに、酔っ払っていい機嫌で入ってきてさ。こっちはずっと作業をしてるのに、ああだこうだっていろいろと難癖をつけ始めた。「そこの音は違うよ」とか言う。いやいいから、いいからって、そんな話は全然聞かずにいたんだけど、もうあんまりだから、「うるさいなあ」、「もういいよ」って怒った。
大江田:「高田渡に会いに行く」の中でも言ってたね。こういうことって、渡さんと佐久間の間で多くはないよね。
佐久間:うん、多くないよ。
大江田:渡さんって、「あらら、順平さんに怒られちゃった」とか、言いそうじゃない(笑)。
佐久間:(笑)渡さんは、映画制作のスタッフと一緒だった。飲み屋から引率されてスタジオに来て、ワーッと騒いで帰っていったんだな。
大江田: 自分の映画を作ってくれている現場が、嬉しいんだろうな。
佐久間:多分そうだと思うんだけど。ちょっと飲みすぎてたのか、何らか茶々をいれたくなったんだろうね。
 でもさ、スタジオにいるのは全員しらふだからさ。「お前の話なんか、聞きたくねえよ」みたいな感じだよ、オレはね(笑)。
大江田: 喧嘩というほどのことじゃないよね。ちょっとしたいさかいと言うか。後味が悪い?悪くはないでしょ?
佐久間:別に、悪くないよ。そんなもんだよ。たださ、釧路で倒れたって聞いた時にね、あっ、あれが最後だったなって思った。三番目の兄の烈(いさお)さんと、次の日に「一緒に行きましょう」って、羽田から釧路に飛んで、病院に行った。渡さんは集中治療室に入ってて、もうそのまま意識が戻らずに亡くなったんだよね。
大江田: 集中治療室には、どれくらい入ってんだっけ。
佐久間:2005年の4月3日に倒れて、4日ぐらいから入院して16日に亡くなってるから、10日間ちょっとかな、入院してたのは。
 要するに抵抗力はもう全然なくて、風邪の菌でやられちゃったんだ。それはしょうがないんだ。お医者さんがそういう言うんだから、しょうがないんだろうと思う。
大江田: お棺を釧路から羽田まで運んだんだよね。
佐久間:うん。お棺を釧路空港に運んで、羽田まで飛行機で運ぶわけだ。で、東京側での受け入れをどうしようかと相談していたときに、井上陽水さんから連絡があって、「オレが迎えに行く」って言ってくれたんだよ。「それじゃあ、お願いします」と言って、オレらは三鷹のアパートで待ってたわけ。
 羽田空港にお棺が出てくる特別な場所があって、そこの写メを陽水さんが撮ってくれていて、一周忌のとき見せてくれたよ。ここから出てきたんだよって。
大江田: 吉祥寺教会でのお葬式のときに、お棺を開けて、顔が見られたもんね。オレ、自分の親父が亡くなった時には泣かなかったんだけど、あの時は泣いたな。悲しかったな。


音楽家 佐久間順平に会った_3 に続く

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