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ロック巨大化の裏で伸張したパンクとレゲエ

音楽文化論の聴講[第14回]
1970年代 | 音楽産業の巨大化がもたらしたもの/パンク・ロックとレゲエの登場

●大学の音楽文化論の14回目の授業は、「音楽産業におけるロックの巨大化がロック・ミュージシャンとロックに与えた影響を理解」し、「ロックの巨大化と音楽的な高度化に対する対向的なムーブメントについて理解」するというものです。
以下に、先生の指摘や説明をまとめます。

●アルバムセールスの巨大化とミュージシャンの苦悩
■レコードのヒット、大ヒット、そしてメガ・ヒットの誕生
・RIAA(Recording Industry Association of America)が100万ドル以上を売り上げたレコードに対して1958年に、ゴールドディスクの認定を開始した。1975年6月以前のアルバムは、枚数ではなく金額が基準で、ゴールドが100万ドル、プラチナが200万ドルだった。
・RIAAはディスコ・ミュージックの大ブームによるLPレコード売上急増に対応し、1975年6月以降からはゴールドディスクは50万枚の販売実績、さらに100万枚以上のプラチナ・ディスクを新設した。また1988年までは、100万枚以上を売り上げたシングルを、ゴールドディスクと認定していた。
・70年代半ばごろから米国内だけで1000万枚以上を売り上げる超ヒットアルバムが出現した。2020年12月現在で、約120作品が該当する。
・例えばザ・イーグルスの Hotel California(1976)。70年代の米国を代表するアルバムで、現在までに米国内のみで2,600万枚以上の売上(米国史上3位)。3年後の次作アルバム Long Run を最後に解散。メンバーのグレン・フライは、「このレコードを作っているうちに、グループにもメンバーにも疲れてしまった。しかも僕らは『ホテル・カリフォルニア』以上のものをつくらなければならかったのだ」とコメントした。
・ピンク・フロイドの The Dark Side Of The Moon (1973)。1970年代を代表するアルバムで、ロングセラーのギネス記録を持つ。ビルボード・トップ200に15年間チャートインした。その後のコンサート動員数の大幅増加と、客層の変化への戸惑いから長期の休暇へ。新アルバムの制作が困難を極め、発売までに2年を要した。前作において「音楽的にやりきった」感が生じ、メンバー間に不協和音も生じた。
■アルバム・セールの巨大ビジネス化の帰結
・「大ヒット」することが当然のように期待される時代が到来した。レコード会社の「ビジネス化」が、独立系のレコード会社にも及んだ。
「音楽産業が恐竜のように巨大化したので、まるで自分が小人のように思える」とニール・ヤングはコメントした。
・ロックは莫大な利益を生み出すビジネス・システムとなり、ロックやロック・ミュージシャンを制約するようになった。
■ロックの巨大化がもたらしたロックとロック・ミュージシャンへの影響
「大ヒット」の「当たり前化」が、ミュージシャンへの大きなプレッシャーとなった。アルバム制作の長期化が、関係者の不和と「音楽的にやり尽くした感」を加速した。
・ファンが急増しコンサートが大規模化する一方で、ヒット曲のみを体験しにくる観客の増大が、ミュージシャンに不信を生じさせた。
・巨大化した音楽ビジネスを前提とするバンド運営、音楽の方向性をめぐる争いによって、メンバー間の軋轢が増大した。
・その結果、ロックンロールや60年代後半のロックが持っていた軽快さ、鋭さなどの魅力や、社会への「直接的な」異議申し立てや反抗の要素をロックが喪失していった。

●パンクロックとは何か?
・60年代後半に米国の無名グループの一群が「punk」(チンピラ、不良を意味するスラング)と呼ばれた。
・高度な演奏スキル、高度な音楽構成、高価な機材の使用が当たり前となっていた70年代当時のハード・ロックやプログレッシヴ・ロックへのアンチテーゼ。
・比較的に共通する音楽的特徴として、スリー・コード中心のシンプルなロックン・ロール・サウンドをベースにしているものの、ブルース等の黒人由来の音楽要素が薄い。
・一方でアップテンポで攻撃的なサウンド・スタイルだが、チャート・ヒットに見られるポップな要素を取り入れたパンク・バンドも多数存在する。
・またニューヨーク・パンクには、攻撃的ではない無機質なサウンド・スタイルも存在。テレビジョン、トーキング・ヘッズなど。
・政治的、社会的な抵抗を過激に歌い上げるバンドがある一方で、そうした要素とは無関係なバンドもある。
■ニューヨーク・パンクの誕生
・60年代後半の米国アンダーグラウンドの人気グループや、72年デビューのニューヨーク・ドールズのサウンドが源流。
・米国ではアンダーグラウンドな存在だったパンク・バンドが、海を隔てた英国で注目される。
・70年代後半からニューヨークで続々とパング・バンドが誕生した。
・ラモーンズ、テレビジョン、パティ・スミス、トーキング・ヘッズなど。

■ロンドン・パンクの誕生
・70年代中頃、当時不況下にあったロンドンでパンク・ムーブメントが起きる。
・社会や権威に対する反抗的な態度、暴力的なライブ・パフォーマンス、過激なファッションが、多数の都市の若い失業者の不満、怒りから来る反抗や暴力性と共鳴し、多くの若者に受け入れられる。
・多くのパンク・バンドはレッド・ツェッペリン、ピンク・フロイド、クィーン、ザ・ローリング・ストーンズら、スターとなったグループを激しく攻撃した。またハード・ロックを「ダイナソー・ロック」、プログレッシブ・ロックを「オールド・ウェイブ」として激しく攻撃した。
・セックス・ピストルズ、ザ・ダムド、ザ・クラッシュ、ザ・ストラングラーズなど。

■パンクの影響
・パンク・ムーブメントは、70年代後半には収録する短期的なものであったが、その後に登場するニューウェーブが音楽要素を受け継いだ。
・パンクのサウンド、ライブ・パフォーマンス、パンク・ミュージシャンの振る舞いやファッションは、世界に影響を与えた。
・社会のメイン・ストリームに対する"抵抗"をロックに取り戻させた。

●レゲエの登場
■ジャマイカとレゲエ・ミュージシャン
・ジャマイカは長らく英国の植民地であったが、62年に独立した。
・その後、首都キングストンが都市化したことにより、地方の若者が大量に流入したことから、多数の失業者が生まれ、スラムが形成された。
・60年代後半に誕生したレゲエ・ミュージシャンの多くは、キングストンのスラム出身の成功を夢見た若者達だった。
■サウンドの特徴
・ジャマイカ音楽のメント、スカ、ロック・ステディと米国のR&Bなどが融合したもの。
・ゆったりとした裏拍のノリと頭抜きのリズム。これらを担うベースとドラムスの役割が大きい。
■歌詞の特徴
・キングストンで誕生した新興宗教ラスタファリの影響受け、政治社会、物質主義、植民地主義への抵抗がみられる。ジャマイカ人の多くは、黒人奴隷の子孫であり、米国のブラック・パワーの影響もある。
・そのほか、当時のジャマイカで親しまれていたマリファナについて、男女の恋愛、厳しい生活の現状などが歌われる。
■レゲエのイギリス上陸と世界的な普及
・70年代初頭から中頃にかけて、ジミー・クリフ、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズが英国アイルランド・レコードと契約、デビューをしたことで、レゲエの存在が広く知られることになる。
・ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズの世界的な成功により、広く世界に普及した。

・音楽と併せてレゲエ・ミュージシャンのドレッド・ヘアや(ラスタファリに影響を受けた)思想・ライフスタイルが注目を集めた。


■アイランド・レコード
・アイルランド人の父とジャマイカ人の母を持ち、ロンドンに生まれたクリス・ブラックウェル(1937〜)が創業。レゲエの紹介と普及に多大な貢献をした人物。
・1959年にレゲエの紹介を目的として、ジャマイカでアイランド・レコードを設立。
・1962年に英国に会社を移転。ジャマイカ音楽を英国、そして世界に紹介した。
・70年代に入ってフォークやロック・ミュージシャンと契約したことから商業的に成功してビジネスを拡大したが、アーチストを育成するとの方針を貫いた。
・アイランド・レコードが商業的に成功したことで、レゲエ・ミュージシャンのより広範囲への普及が可能となった。
■レゲエのロックへの影響
・ニューウェーブに影響を与えた。

・英米以外の第三世界から登場した音楽が、ロックに影響を及ぼした。80年代のアフリカ音楽など、第三世界の音楽への接近の先駆けとなった。
・既存社会への抵抗・意義申し立てをロックに再びもたらした。
・70年代中頃、エリック・クラプトン、ポール・サイモン、ザ・ローリング・ストーンズ、スティヴィー・ワンダー、ザ・ポリスなどの大物アーチストがレゲエのロックカバーや、そのサウンドを取り入れた。
■パンクとレゲエの交流
・ロンドンでは下層階級の白人と貧しいジャマイカ系の人々の住居は接近しており、そのため下層階級の白人にレゲエは身近な音楽となっていた。
・後にパンク・ミュージシャンとなる下層階級の若者たちが、パンク・ロックのサウンドにレゲエを取り入れるようになる。
・パンクと同様に、政治・社会に対する抵抗・異議申し立ての要素を持つレゲエとの間には、親近感や親和性があった。


●1976年の初春、大学卒業を前にボクはバックパッカー旅行者として、二ヶ月ほどヨーロッパを旅していました。パリに滞在していた時に、アマチュアのパンク・バンドと知り合い、彼らがリハーサルをしているスタジオに入れてもらいました。ひとしきりバンドのリハーサルにつきあっていると、自分たちのようなロックは好きか?聞かれ、うん、好きだと答えました。そしてこれからロンドンに行く予定だと伝えると、キングスロードの「セックス」というブティックに行くといいと、勧められました。そこが新しいロックのトレンドの中心地だと、言われました。これを説明しているあいだの彼らの表情が、イキイキとしていたことを覚えています。もちろんそこがマルコム・マクラーレンの経営するブティックだということは、この時には知りません。実際にブティック「セックス」に行く時間は持てず、夏時間が始まる当日に、慌ただしく日本に帰国しました。数日後から、就職先の会社の新入社員として、勤務が始まる予定でした。そういえばロンドンでは、買える限りのブリンズリー・シュウォーツとニック・ドレイクのアルバムを買いました。

それから数年後、再びロンドンを訪れる機会があったボクは、有名なライブハウス、マーキー・クラブに行きました。メイン・アクトはウルトラヴォックスだったと覚えています。フロント・アクトのバンドは、残念ながら忘れてしまいました。いずれにしてもこの日の最も鮮烈な記憶は、フロントとメインの間のセット・チェンジの間に、シド・ヴィシャスの歌う「マイ・ウェイ」(1978)が、店内に爆音で流れていたことです。彼が歌う「マイ・ウェイ」の意味するところを感覚的に分かった気がして、強く共感しながら聞きました。実にささやかなのですが、これがボクが実地で得たパンク体験でした。

●音楽文化論の授業は、この14回で終了しました。
なお授業と併せて読むようにとして紹介された参考図書を、下記に記載しておきます。

  • 中野耕太郎著『20世紀アメリカの夢: 世紀転換期から1970年代』(岩波新書)

  • 小関隆著『イギリス1960年代 : ビートルズからサッチャーへ』(中公新書)

  • 大和田俊之著『アメリカ音楽史 ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで』(講談社選書メチエ)

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