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「翻案歌」って、なあに?

「翻案」という言葉を初めて知ったのは、大学の日本演劇の授業でのことだった。大変に熱心に深い愛情を持って文楽についての研究を進めておられた内山美樹子先生から、文楽の歴史、演目、作家としての近松門左衛門についてなどを学んだ。授業では仮名手本忠臣蔵の床本を読み、それが上演されているということで、国立劇場で実際の舞台を見た。
その内山先生が、「ここまで人気が落ちるなんて」と悔しそうに話されたのが、文楽に活路を見出したいとして戦後間もなく、1956年に上演されたシェークスピア作品の『ハムレット』だった。同作品は『ハムレット』そのものを文楽に置き換えた演目だったようだが、外国文学を文楽に置き換える際のさらなる方法として、先生は翻案について説明された。先生の口ぶりが大変に悲しそうだったことが印象に残り、それ以来、「翻案」という言葉が強く記憶に残った。
それからおよそ30年後の1992年には、シェークスピアの『テンペスト』を元にした文楽『天変斯止嵐后晴』が上演されている。実際の舞台を見ていないのだが、残された資料によれば『天変斯止嵐后晴』では物語の舞台を中世の日本とし、登場人物の名前は日本名に置き換えれられた。翻案と脚色を手がけた作家名も、今に残されている。

翻訳"とは、外国語作品を日本語に訳すこと。
"翻案"とは、外国語作品を日本人の主人公や日本の状況に置き換えること。
つまり作品の骨子やアイデアを日本流に焼き直すことだ。
マカロニ・ウエスタン映画の『荒野の用心棒』は、黒澤明監督の時代劇『用心棒』を西部劇に翻案した作品と言われているとか、和歌にも本歌取と称する過去作品の引用的な手法があるとか、ふとしたタイミングで「翻案」とその周辺の事柄が、目に入るようになった。
そういえば日本の洋楽ポピュラー音楽の受容過程においては、どうだったんだろうと思い立ち、改めて調べてみた。

するとすでに平安時代から、日本では外来作品が翻案されていたという指摘に出会った。唐詩の内容やあり方を踏まえて日本人に向けて翻案した大江千里(おおえのちさと)による「句題和歌」が、これに該当するという。日本大百科全書デジタル版では、「894年(寛平6)成立。宇多(うだ)天皇より古今の和歌の類聚 (るいじゅう) を求められたのに対し、唐詩の一句を題とした翻案歌110首(現存本は115首)をそれぞれの摘句とともに番(つが)えて、これを漢詩文集の部類をも参考に、春、夏、秋、冬、風月、遊覧、離別、述懐に分類し、末尾に自詠和歌10首(詠懐)を添えて献上したもの」と、解説されていた。なお類聚とは、「同じ種類の事柄を集めること。また、その集めたもの。類集」と同書にある。

外来ポピュラー音楽を受容したのち消化し、そして発展させた過程に生まれる作品と、「句題和歌」とは似ているように思われた。外来ポピュラー音楽が原詞のままカヴァー演奏されたのち、翻訳歌が歌われ、ほどなく日本語の翻案歌がヒットしたという経緯は、少なくない。ポピュラー音楽における翻案とは、音楽ジャンルの固有の特性を活かしながら、独自の価値を内包する作品を新たに生み出す営為のことだ。具体的には、洋楽受容者としての聴取や演奏経験を持つ音楽家や制作者たちが、日本の聴衆に馴染むように換骨奪胎する作業でもある。日本語詞が用意されることも、歌唱作品における翻案の重要な要素だろう。NHK朝の連続テレビドラマ・シリーズ「ブギウギ」で話題になっている笠置シヅ子によるブギウギ由来の「東京ブギウギ」(1948)、加山雄三によるハワイアン由来の「お嫁においで」(1966)、かまやつひろしによるカントリー由来の「どうにかなるさ」(1970)などを、同種のヒット曲の代表例として挙げることができる。これらの楽曲は、各々が由来する音楽ジャンルの外来性に囚われることなく日本の聴衆に受容され、流行歌として同化した。


ここでざっくりと日本のポピュラー音楽受容の歴史を、たどってみる。
大正期にアメリカよりジャズ、昭和初期にハワイよりハワイアン、フランスよりシャンソン、アルゼンチン及びドイツよりタンゴと、複数の外来ポピュラー音楽が、日本には流入している。それぞれのジャンルにおいて、日本人演奏家も誕生した。オリジナル曲のカヴァー演奏が行われたのち、翻訳歌、さらには翻案歌が演奏された。日本の作詞家/作曲家や音楽家にとって、日本語詞の翻案歌を作り演奏することは、ジャズやシャンソンなど自身が属する音楽ジャンルを日本人聴衆に浸透させ、さらには自身の知名度を引き上げるなど、制作活動において必要な行為の一つだった。
戦争が激化し、1943年に内閣情報局から「英米音楽の追放」が通達された。同盟国以外の音楽の放送も演奏も禁じられるなか、タンゴのみが友邦ドイツの音楽との理由から演奏が許され、ファンの間でレコードが愛聴された。

1945年8月15日、日本は第二次世界大戦の終結を迎えた。
戦後の日本人には、GHQ(日本を占領統治した連合国軍最高司令官総司令部の通称)の各種政策が、大きな影響を与えた。「GHQの文化政策は、戦中戦前期の日本文化の多くを否定した。文化的なフリーパスを与えられたのは、アメリカ制作の映画と音楽で、競合するヨーロッパ制作の映画や音楽は劣勢だった」 とする篠原章による指摘も、GHQが実質的にはアメリカの日本占領機関であったことに起因している。
終戦から約1ヶ月後の1945年9月23日より、NHKラジオの第二放送に割り当てられていた電波が、進駐軍放送(WVTR)に提供された。戦時中の「英米音楽の追放」から一変し、進駐軍慰安を目的として放送されるアメリカのポピュラー音楽が、日常的に日本人の耳に入る事態となった。
アメリカ軍の「進駐軍クラブ」など娯楽施設に芸能の提供を求められた日本政府は、数多くの日本人音楽家の派遣に踏み出した。娯楽施設では、主として進駐軍米兵を相手に、生演奏が提供された。「当時、米兵からの要求が多かったのが、ジャズやアメリカで流行しているポピュラー ・ ソングなどのバンド演奏だった。とりわけ、スイングスタイルのビッグ・バンドやコンボによる演奏が多かったという。バンドマンたちは日夜レパートリーを増やすことと腕に磨きをかけることに懸命だった」と東谷護は指摘している 。1948年には進駐軍の娯楽施設を主な活動の場とする日本人のジャズバンドは150以上、タンゴバンドは50余り、ハワイアンも50くらいあり、また同年、要請に応じて日本人によるカントリー・バンドを派遣すると、米兵たちは狂喜したという。

1952年の占領期終結にともない多くの進駐軍の娯楽施設が閉鎖したことにより、仕事を失った音楽関係者が多かった。東谷は「とくにバンドマン、 歌手、仲介業者はオフリミットの外へ出ることによって、歌謡曲と結びついた者たちがいた。彼らが戦後日本のポピュラー音楽文化を発展させていく上で大きな役割を果たした。それはオフリミットとは縁のなかった日本人へオフリミットで受容したアメリカのポピュラー音楽やそれらを上手にとりこんだ歌謡曲などを聞き手に与えたという点においてだ」 とする。なお「オフリミット」とは、「アメリカ軍に接収された場所」 であり、進駐軍の娯楽施設は「オフリミット」内にあった。進駐軍との関わりを捨てて仕事を継続した音楽家は、昼はレコード会社の録音スタジオで働き、夜になると街の日本人相手のクラブやキャバレーで演奏した。東谷の言う「アメリカのポピュラー音楽やそれらを上手にとりこんだ歌謡曲」 が日本の街々で演奏され、時にはレコード盤に刻印され、広く日本人の音楽的感性にアメリカ的な要素が加えられた。
1958年のロカビリー、1962年のフォーク、1965年のエレキ・ギターと、アメリカ発のポピュラー音楽の流入が続いた。エレキ・ギター・ブームにおいては、独自の翻案曲は用意されず、ほぼ英米曲のカヴァー演奏に終始したものの、ロカビリーとフォークのブームにおいては、戦前における外来ポピュラー音楽と同様に、オリジナル曲のカヴァー演奏が行われたのちに翻訳歌、そして日本語詞の翻案歌が演奏されるという経緯をたどった。

1965年のエレキ・ギター・ブームを引き継ぐように、1966年にはエレキ・バンド編成により洋楽感覚のバック・サウンドを自ら演奏しながら、日本語詞のロック/ポップスを歌う複数のグループが登場し、ブームを巻き起こした。これらは、グループ・サウンズ(以下GSと表記)と呼ばれた。
古く大正時代に始まった日本における外来ポピュラー音楽の流入においては、それぞれの音楽ジャンルに応じて日本人演奏家によるカヴァー演奏が行われ、そして翻訳歌、さらには翻案歌が制作され演奏された。こうした外来ポピュラー音楽の「受容・消化・発展」のプロセスは、戦前のジャズやハワイアン、さらに戦後のカントリー、ロカビリー、フォークなどにおいても、同様に繰り返された。
GSにおいて、そうした定型的なプロセスに始めて変化が見え始める。
GSにおいては一部のバンドにおいて翻訳歌の採用が行われ注目を集めたものの 、翻案した歌のヒット曲は登場しなかった。従来の歌謡曲路線に近い音楽内容の「夕陽が泣いている」(1966)が、ザ・スパイダースの演奏によってGSブーム初期における大ヒットとなったため、同様の傾向の作品がその後も継続したことが一因とされている。GSでは当初から日本人作家による独自制作の楽曲が演奏されており、作品の多くは、フリーランスの作詞家/作曲家たちによって、書かれていた。近田春夫は、GSとはレコード会社、作家などの音楽制作スタッフ、大手の芸能プロダクション、テレビや雑誌などのメディアが手を組んで作り出したブームだとした上で、芸能界的な商業主義の枠組みを超えることができず、「GSの楽曲の作り手は、本音を言えばロックになんか興味がない」 としている。
近田春夫のコメントに同意しつつも、ティーンエイジャーを主体とする受容者たちが知らず知らずのうちに受け取っていた外来性については、GSを考える際の更なる論点として加えられていいものと思う。自ら伴奏を行う演奏形態、熱気のこもった演奏と歌唱、長髪、演奏時の身振り、統一された衣装などの演奏時の表現が、ティーンエイジャーにとって、GSの大いなる魅力だった。実際のところ、GSの多くは同時代の英米のビート・バンドを雛形としており、この点はティーンエイジャー向けの芸能誌などによって解説されていた。当時はジャズ喫茶と呼ばれていたライブハウスのステージでは、彼らは洋楽カバーを演奏していたし、メンバー自身も、外来の最新トレンドの具現者であることに、優位性を見出していた。すなわち、GSとは音楽面や運営面において従来型の歌謡曲の類似形であったとはいえ、存在それ自体が同時代の英米のビート・バンドの日本的な翻案だったのである。GSからそうした外来性を嗅ぎ取ったティーンエイジャーの感性が、その後の日本語のロックの受容において、さらに発揮されることになったものと考えていいだろうと思う。



イラストレーション ツトム・イサジ

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