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ポピュラーソング・グラフィティ

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ポピュラー・ソングのあれこれを巡る雑記帳です。
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「翻案歌」って、なあに?

「翻案」という言葉を初めて知ったのは、大学の日本演劇の授業でのことだった。大変に熱心に深い愛情を持って文楽についての研究を進めておられた内山美樹子先生から、文楽の歴史、演目、作家としての近松門左衛門についてなどを学んだ。授業では仮名手本忠臣蔵の床本を読み、それが上演されているということで、国立劇場で実際の舞台を見た。 その内山先生が、「ここまで人気が落ちるなんて」と悔しそうに話されたのが、文楽に活路を見出したいとして戦後間もなく、1956年に上演されたシェークスピア作品の『ハ

モンキーズの「恋の終列車」が映し込んだ徴兵への不安と焦燥

1960年代のアメリカでは、ベトナム戦争の激化に伴って様々な反戦歌が作られた。カウンター・カルチャーの時代だったことも手伝い、急速に伸張したフォーク・ロックやロック、またソウルにおいて、反戦を訴える相当数の作品が発表された。明確な意図を持つ反戦歌とはまた別に、いわば他愛もないポップ音楽と見なされがちな作品の中にも、ベトナム戦争を題材とする複数の楽曲があった。その代表的なものの一つが、全米1位のヒットを記録したザ・モンキーズによる「恋の終列車」(1966)だろう。 恋人に会いた

実在していたジョン・ヘンリー

 アメリカの古いフォーク・ソング『ジョン・ヘンリー』のことを、書いてみたい。といっても、ご存知ない方がほとんどだろう。まずはブルース・スプリングスティーンの熱唱を聴いていただこう。  歌のストーリーの骨子はこんな具合だ。  ジョン・ヘンリーは、トンネル工事に従事する鉄道労働者。ハンマーを手に、固い岩を掘るのが仕事だ。ある時、親方が採掘の効率をあげるために、蒸気ドリルを持ち込むという。人間にしかできないことがあるとして、彼は反発した。ならばと、蒸気ドリルとジョン、どちらが早く

生まれ育った土地への愛と共に生きる

1950年代末にブラジルで誕生したのち、アメリカを経由して世界に広まったボサノーヴァ。南洋のハワイにも上陸すると、ハワイアン・ミュージックと蜜月となり、フラノーヴァと呼ばれる新たな味わいのハワイアンを産み出した。その代表とされる曲が、クイ・リーの作詞作曲による「アイル・リメンバー・ユー」だ。1964年にドン・ホーが自らのショーで歌いハワイで評判を取った後、フランク・シナトラ、エルヴィス・プレスリーら多くのシンガーがカバーするなど、思いがけぬ拡がりを持つ歌となった。 まずコニ

深夜特急よ、オレの体を照らしてくれ!

「ミッドナイト・スペシャル」という歌がある。初めての商業録音は1926年。30年代に録音され、以降の定番となったレッドベリーのヴァージョンをカバーしたブルース・シンガーやフォーク・シンガーを始め、50年代末のイギリスでスキッフル・スタイルでヒットさせたロニー・ドネガン、それをおそらく少年時代に聞いていたポール・マッカートニーやヴァン・モリソン、そしてクリーデンス・クリアウォーター・リヴァイバルのようなロック・バンドによるヴァージョン、ポップ・コーラスのアバに至るまで、数多くの

アメリカ人の「チュー チュー」は、日本人の「シュッポ シュッポ」

「汽車汽車 ポッポ ポッポ シュッポ シュッポ シュッポッポ 」と歌われる「シュッポ シュッポ」。日本では蒸気機関車が煙を吐きながら走る様子を描写する擬音語として知られている「シュッポ シュッポ」は、アメリカだと「チューチュー(Cho Cho)」だ。「チューチュー・トレイン」と言えば、それはディーゼル機関車でもなく、電気機関車でもなく、蒸気機関車を差すのだということを、かつて出向いた"やぎたこ"のライブのMCで知った。 そういえばそうだとボクが思い出したのが、ニール・セダカ

「作詞家は嫌だ、夜の時間が混乱するから」

1966年に英国の女性シンガー、ダスティ・スプリングフィールドが歌い、全英1位、全米4位のヒットを記録した「この胸のときめきを」。この曲には、元歌がある。前年、65年のイタリア・サンレモ音楽祭において、歌手のピノ・ドナッジオとジョディ・ミラーの歌唱によって発表されたイタリア生まれのカンツォーネ「Io che non vivo」がそれ。惜しくも大賞は逃したものの、入賞を果たした曲だった。ダスティ自身も同音楽祭に「Tu che ne sai?」(「What Do You Know

 ウクレレ片手にジャズ小唄。

ウクレレが好きだ。それもウクレレの弾き語りがいい。 クリフ・エドワーズというアーチストを知ってから、ウクレレの弾き語りで歌われるジャズ・ソングを、俄然好きになった。 クリフは、1940年のディズニー映画「ピノキオ」において、ピノキオの友人、コオロギのジミニー・クリケット役を担当した声優さん。冒頭と最後に歌われる主題歌「星に願いを」を始唱した。 彼は、またの名をウクレレ・アイクという。その名の通り、ウクレレの名人だ。ウクレレ片手にさらっと歌うジャズ・ソングが、とにかくイカし

ボクらは同じ虹の果てを追い求めている

「ムーン・リヴァー」は、1961年製作のアメリカ映画『ティファニーで朝食を』のために書かれた。 主演女優のオードリー・ヘプバーンが、ニューヨークのブロードウェイ259番地の宝飾店ティファニーの店頭で、デニッシュとコーヒーの朝食をとる冒頭映像のサウンドトラックとして、まずはヘンリー・マンシーニのオーケストラとハミングのコーラスによって演奏される。 さらにオードリー・ヘプバーンも自ら、アパートの非常階段でギターを弾きながら歌う。言われるように彼女の歌唱は、決して上手くはなく、本

できることならもう一度だけ、あの部屋に戻りたい

1961年、20歳のディランは、シカゴを経てニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジにたどり着いた。ミネソタ大学の学生として暮らしミネアポリス界隈のフォーク・クラブで歌う日々に見切りをつけ、フォーク・ムーヴメントの中心地、グリニッジ・ヴィレッジで自分を試したかったのだろう。またもう一つ、新たなステップを昇りたいとする気持ちもあったにちがいない。 1963年に発表されたセカンド・アルバム「フリーホイーリン・ボブ・ディラン」には、彼を一躍有名にした「風に吹かれて」をはじめ、「戦争の

「クワイエット・ヴィレッジ」で、暑い毎日の納涼を

 久しぶりにマーティン・デニーの「クワイエット・ヴィレッジ」を聞いた。1959年に全米4位、16週間ホット100に在位して、ゴールド・ディスクを獲得したエキゾ音楽のオリジナルのひとつとされる曲だ。  定期的に出演していたハワイのホテルラウンジで、デニーのグループが「クワイエット・ヴィレッジ」を演奏していた時のこと。会場近くの池のカエルが大きな声で鳴いた。これを真似しながらデニーがピアノを弾き続けると、会場が大いに湧いた。その後、パーカッション担当のメンバー、オージー・コロン

隣の家の窓辺には、こんなに素敵な彼女

「ソー・マッチ・イン・ラヴ」といえば、ラジカセを知る世代にはパイオニアのテレビCM(1983年)とともに記憶されているのではないかと思う。「I Love You」と書いた紙飛行機を、隣の家の窓に向けて投げたところ、お目当の彼女の後ろを通り過ぎ、あえなくゴミ箱の中に落ちてしまう、あの映像の後ろに流れていた曲だ。 これを歌っているのは、元イーグルスのティモシー・シュミット。当時のアルバムのライナー・ノーツだったか、どこだったかの記事で、「ティモシーがよくこの曲を知っていたものだ

こっそり逃げ出すのが一番よ。

 ポール・サイモンの「恋人と別れる50の方法」は、1975年に発表された彼のソロ・アルバム「時の流れに」に収録の一曲だ。シングル・カットされて、この年の12月にチャートに登場すると、翌年2月に全米1位。3週間に渡って1位を維持したのち、都合17週のあいだホット100に在位するヒット曲となった。  恋人と別れたがっている男性に、旧知の女性が別れる方法を助言するというのが、この歌の設定だ。具体的に50の方法を示しているというのではなく、沢山の方法があるということを、50という数

片道切符を買って、故郷ジョージアに向かう。

「カリフォルニアの空は、何色なのだろう? 」と題する雑記帳では、アルバート・ハモンドの「カリフォルニアの青い空」をめぐって、ポピュラーソングが扱う「カリフォルニア」について触れた。 アメリカ人にとって見果てぬ夢の場所だったはずのカリフォルニアが、いつしか夢破れる場所となり、それまでカリフォルニアと一括りにされていた地名も、サンフランシスコやロサンジェルスなどの都市の名前が、歌詞に具体的に登場するようになる。 1973年秋にグラディス・ナイト&ザ・ピップスが歌った全米No.