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伊藤貫セミナー④ーアメリカ人の思想的性質

アメリカ人は1960年代を境に性質ががらりと変わった。

それまではアングロサクソン至上主義で、プロテスタンティズムの倫理を根拠に生活していた。プロテスタンティズムというのは、教会(教皇)の言う通りにする(カトリック)のではなくて、イエスの言を直接拝しましょうというものである。彼らの聖書解釈によれば、禁欲主義、勤勉である。神的奉仕のため労働を是とする。

『最後の強敵日本を撃て』(ヤコブモルガン著)によると、ユダヤ金融資本はアメリカを占領支配するために、単細胞で粗暴なアングロサクソン人を使役してインディアンを虐殺した。

イエスの隣人愛によるとアングロサクソン人が聖書を信奉していたとはとても思えないではないか。しかしこれにはカラクリがある。おそらくアングロサクソン人は聖書の倫理をインディアンに適用しなかった。

アングロサクソン人は心の底からインディアンを人間だと思っていなかった。

本当に違う生き物だと思っていた。

アフリカ人に対しても同様である。

それはむしろアングロサクソン人よりもユダヤ人の志向なのかもしれないが、アングロサクソン人に言えることは、彼らには冷静な観察眼が皆無で偏見が強く排他的である。

それはそうである、彼らの生業は元々海賊である。

大した思考力などあるはずがない。

それは置いておいて、1960年代までのアメリカ人には、何らかの倫理体系があった。それはキリスト教スピリチュアリズムでもよく言われていたことで、主には愛の強さが神的次元を決めるのである。それが本来のチャリティー精神の元である。それでストイックに頑張る、みたいなことである。

1960年代からヒッピー文化が到来して、自由、平等、個人主義、多様性の容認になった。

それまでの倫理観が完全崩壊した。今のアメリカ人は文化的哲学観念がない。

それで個人主義になったのだから、個人個人が立派な哲学を持っているに違いない、と思いがちだが、そうではない。

アメリカ流の自由、平等、個人主義、多様性の容認に批判的意見を「自由」に繰り広げる者は村八分にする。

アメリカ人は真に突き詰めた哲学を個人が展開することを、本当は許さない。

それで、個人は拝金主義になった。

物事を考えなくなった。

それで、個人の欲望の行使に干渉しないのが「自由」、そのチャンスが誰にでも与えられるのが「平等」、人種とか性によって差別しないのが「多様性」(ただしこれは画一化でもある)である。この理念を批判する者は許さない。

今のアメリカ人は個人主義に捉われて内弁慶になり真善美についての議論なんかできない。ただの物欲主義である。

この前東京15区補欠選挙で、つばさの党が選挙妨害演説をしていたのだが、そこの聴衆で、「そんなことをして何の得がある」と反論してくる者がいた。私は一瞬「!?」ってなった。

何の得・・・!?

昔からよく聞くフレーズだが、一体何のことだったのだろうか。

得と言えば社会の利益のために決まっているではないか。

このヤツは決まり切ったことをなんでこんなにも疑問視するのか。

その正体はこうだ。コイツは利益を個人視点でしか見たことがない。個人にとって利益になることしかやる意味が無い、これがプラグマティズムである。独我論でもあるだろう。

日本人はこういった個人主義の利益追求主義に洗脳されており、それに疑問を持ったことすらない、疑問をさしはさむチャンスがない。これがアメリカのヒッピーからもたらされた弊害なのである。

これが客観的真善美にしか興味がない私には存在しない発想だ。それが「!?」と思わせたのだ。

そもそも政治とは客観的真善美、普遍的真善美について、候補者が提案するものだ。そこで急に個人の利益の観念を持って来られると「!?」ってなるのだ。

その他、構造主義というのは社会システムが思考回路を規定するみたいなことで、言語学では思考ツールとしての言語は、それぞれ単語の指し示す範囲の違いによって完全な訳が出来ない、そこで言語が持っている単語の性質が思考回路を規定するみたいなことが言われた。

つまり、近年120年の哲学は、思考回路の規定方法しか考えられておらず、「人間はなぜ生まれ」「いかに生きるのか」ということを考えなかった。「個人の自由」とか「分からないので考える価値がない」とか言って、それが賢さの象徴とされた。

個人の利益だけを貪っていればいいと言ったような社会は弱体化する。つばさの党が政治家の闇を質問しに行くことによって、政治家の欺瞞を暴き、社会を弱体化させようとするのを阻止することを、「何の得がある?」とかいって我関せずとしているようでは、いずれ社会は滅びる。薬が苦いのを「何の得がある?」とか言って飲まないでいて、病気で死ぬのと同じことだ。

それでアメリカは覇権を失墜させ、日本は中国に支配されるということである。

中国には一抹の懸念がある。

華僑は昔の精神を残していて、儒教的文化がある。これは伊藤貫氏が名を挙げていた孔子のものである。あるいは台湾にも残っているのかもしれない。

ところが本国では中国共産党の抬頭により、伝統的思想文化が完全排除された。共産党はユダヤ人が御用学者のマルクスに作らせたデタラメで、要はユダヤ金融資本のコントロールに晒され、民族精神を絶滅させられたのが今の中国である。

それで現代日本に出稼ぎに来ていた中国人は酷く倫理観に欠ける者が多く、日本人に不評を買っていた。

その他、大陸差別であるとか、反日教育であるとかいった、アジア同士で反目させ、分断させ、アメリカが統治するといったような、ユダヤ人の支配手法が行われてきた。

それで、伊藤貫氏によると国民の根本的精神性が国の盛衰を決めるのであるが、今の中国人に哲学はないではないか、といった問題にはどう答えるのか。

それとも、中国共産党には何らかの民族哲学があるのか・・・

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