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『年齢別図々習熟度』

私はバスで通勤している。
寒い間、つまりだいたい11月ごろから3月くらいまでだ。
なんせ京都の早朝となるとクソ寒い。
天気予報の最低気温などあてにならない。
今年は暖冬だったとはいえ、やはり早朝は-1℃の日がけっこうあった。
しかも朝は夜より暗い。 住宅の明かりが付いていない為、街灯の無いあたりは本当に真っ暗なのだ。
それでもその真っ暗な中を数年前までは自転車で通勤していた。
早朝ということで「私以外に人はいない」という自己中心的な先入観と油断があり、無灯の自転車に横から当てられた経験が2回ある。
かくゆう私もいきなり曲がり角から現れた婆さまに突っ込みかけたことがある。この時は婆さまに突っ込みかけたという罪悪感より、真っ暗なところで自転車のライトに照らされた婆さまの顔がいきなり現れたという恐怖に近いドキドキが勝っていた。突っ込まれかけた婆さまのびっくりした顔をいまだに覚えている。婆さまも恐怖に引きつった私の顔は忘れまい。
冬の朝は大変怖いのである。

そういう様々な恐怖と寒さから逃れるため、この時期はバス通勤に変えた。 バスの定期券代は高いがやはりしかたない。
この時期の私は少し日本経済と京都の赤字財政負担に協力していることになる。
ここ数年、この時期のバス通勤は快適だ。バスはほぼ時間通りにきてくれ、時間通りに着いてくれるし、車内に風はこないし、なによりも婆さまに突っ込む心配はない。
定期を「ICカード」にしたのもお気に入りだ。「ピッ」としてお金を支払わずに下車すると少しマヌケな優越感に浸れる。

しかしである。ここのところ少しアレレと思うことが出てきた。
乗車する際の「割り込み」である。
バス停は、ほぼ毎日同じ人がバスを待っていて、私は「若い女性」「おじさん」に続き、3番目くらいに並ぶ。 まぁ私も相当な「おじさん」なわけだが、彼よりは若いのではないか。
雨が降っていても濡れない軒下が少し離れたところにあり、そこでも何人かのいつもの顔ぶれがバスを待つ。 新おばさん・旧おばさんのタッグ、帽子のおじさんの3人はいつもここだ。
バスが到着すると「若い女性」「おじさん」と乗車していくのだが、 私が乗車しようとすると決まって「新おばさん」は私の前に割り込んで先に乗車する。 初めは大変びっくりした。
「新おばさん」は乗車すると一早く後部の二人用座席をキープし、「旧おばさん」を大きな手招きで迎える。 ちなみに「新おばさん」は60歳前後、「旧おばさん」は70歳前後と思われる。
なるほどな。と思う反面、合点がいかない自分もいる。
私の下車する場所はバス停で4つ先くらいなので、私はバス内では常に立っているのだが、これがほぼ毎日なので少しストレスになっていた。 今では乗車するときの小ストレスと下車するときのマヌケな優越感でプラスマイナス0だ。

先日もこんなことがあった。
この時期の定期をフル活用している私は休みの日も乗り放題をいいことに移動手段としてバスを大いに利用している。この貧弱な優越感を得る行動は誰に似たのか。
この日は帰りに最後に乗るバス停に結構な人が並んでいた。
私は運よく前から2番目に並べたので混雑でも乗れないことはないだろうと安堵していた。 そこへバスが来た。
するとバス停より少し離れたところから『スススッ』とお婆さんが現れ、乗車口が開いたと同時に入っていく。 大変きれいな『スススッ』だった。
サッカーでいうところの『ごっつぁんゴール』を意識的にできてる感じで、まさにフィールドならぬバス停の貴公子。天才だ。
ここでもかと思ったが、私も毎朝イメージトレーニングはしている。
ふふふ。
それを生かすときだった。ふふふ。


「並んでくださいね」


言えた。
相手は天才だが、毎朝泥臭くストレスに耐え、イメージトレーニングを重ねている成果が発揮された瞬間だった。
私はその貴公子が一旦下車し、後部に並んでくれることを願った。
バスに乗れば親切な人がこのお年寄りに席を譲ってくれるはず。これで一件落着だ。 がしかし、その天才は思いもよらぬ行動にでた。
私の声が聞こえるとほぼ同時、バスに乗り込む乗車口一段目で「サッ」と
横を向き、まるでホテルマンが「本日は当ホテルにお越しいただき誠に
ありがとうございます」ばりにお辞儀をして、右手を下から上に私を
案内するように、


「お先にどうぞ」


と柔らかく、そして大きな声で言い放った。
ぐうの音もでないとはこのことだ。とてつもない敗北感だった。
天才のシュートを一旦は止めたが、力負けして弾き飛ばされたような感じだった。 その後私は好奇の目にさらされながらバスに乗り込んだが、バスを降りるまでその天才をまともに見れなかった。
朝の新おばさんでもここまで習熟してはいないだろう。
上には上がいる。そういうことだ。そうして毎日の泥臭いトレーニングの成果は見事に粉砕されたのだった。

先日、この出来事を知人に話してみた。
知人曰く、「人間は年齢を重ねるごとに人を信用しなくなる」
だそうだ。
たしかに、ベビーカーを押しているお母さんや子供と手を繋いでるお父さんが割り込んだりしてるところは見たことがないが、ある程度、子育てが終了
しているであろうお見立ての人に多いように思う。

私はどうだろう。
子育てはしていないが、もうすぐ子供の大学費用に頭を悩ますであろう年齢だ。この子供が大学を卒業し、就職して、自立を果すころに私はどれだけ
習熟しているのだろうか。
知人のいうことが正しければ、私もあと数年で「人を信用しなくなる」こと
になる。それまでにある程度「図々しさ」の習熟度を少しづつでも上げて
おく必要があるのかもしれない。

私にできるだろうか。
まだお年寄りや不自由なかたに席を譲っているほうが楽なような気がする。


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