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警告!この記事を読んではいけない 9歌手に必要な要素・・・過酷な現実

<きちんと歌えない歌手を育んでしまった今の日本>            すみません、徐々に危険度を増すこの「警告シリーズ」ですが、今日は前回8の続きです。前回の記事で、素質、才能についてお話ししました。「もっって生まれてくるものであって、努力や工夫でどうにかなるものではない」という、絶望的な現実を、お話ししてしまいました。

この9では、それをさらに具体的に説明したいと思います。8よりさらに、残酷となりますので、心から警告します。「この記事を読んではいけない」です。では何故、記事として出してしまうのか。それは、本当は読ませたい人たちがいるからです。それは聴くと「耳腐る」レベルの歌手たちにです。

何故、聴くと「耳腐る」ような歌しか歌えない歌手が、約9割もの大部分を占めているのか。嘆かわしいです。私が子供の頃、約半世紀前の頃ですが、「歌手」というのは、歌の上手い人がなるものでした。歌手にもいろいろな個性はありましたが、とりあえず、皆さん「上手い」人たちでした。

そして世の少年少女は「歌手」に憧れました。カッコいいからです。私自身も「歌手はカッコイイ!自分もなりたいっ!」と思っていました。だって、カッコいいんですもの。そして、夜、自分の部屋で一人の時、歌手の真似をして歌ってみたり、動作を真似したりして、喜んでいました(大笑)

本当に、自分で自分を笑いたくなりますが、その頃真似をしていた歌手さんは、布施明さんでした(笑笑!)あの方、本当に歌が上手いと思います。歌を抜きにしても、メッチャカッコイイです。一生懸命真似しました(大笑)いやあ、その頃の私、恥ずかしいです。ただの笑えるガキでしたね。

皆さんも小さい頃、2度や3度は、憧れの歌手ができて「私もこんなふうになりたい~~っ!」と思って、その歌手のマネをしたこと、ありますよね。あるはずです。健全な少年少女なら、誰だってあるはずです!だから、歌手に憧れたり、歌手になりたいと思う事は、まことに健全で自然な事です。

そして、だんだんわかってくるんです。自分は、本当は、たいして歌が上手くないことに。昔は、小学校ではともかく、中学校くらいでは、音楽の授業時間で歌のテストというのがあって、みんなの前で一人で歌わされたりしたんです。多くの子は、ここで自覚しますね。自分がヘタクソであることを。

ところが最近は、学校の音楽の時間に、歌のテストってあまりやらないみたいですね。仮にやっても「みんなで一緒に」とか、意味のないテストが多いようです。歌のテストは、一人で、それもみんなの前でやらないと、意味がないんです。だってテストなんですから。

さらに、目の前で歌の上手い子が歌うのを、目の当たりにするんです。物凄い劣等感に襲われるんです。そして正しく認識するんです。この子は歌が上手い。私はヘタクソ。こういう機会が今は失われているような気がします。教育とは、子供を劣等感のどん底に叩き込むことだと私は思いますけどね。

私は還暦を過ぎた年寄りですが、若者さんたち(この呼び方、だんだん定着してきましたかね、少なくとも私の中では定着したんです(笑))は、生まれた時からすでに「カラオケ」なんてものがこの世にありましたから、歌手になりたい憧れを、より現実に近い形で実現できる環境にいますよね。

実はここがね、私が恐ろしいなと思うところなんです。恐ろしいのはカラオケがではありません。カラオケ空間がある時代に「褒めて伸ばす教育」とか言って「子供を傷つける事を言わない」という先生が多くなり、「本当の事を言わない」大人が増えました。これが恐ろしいと思います。

音楽の、特にこの場合は歌の、素質も才能もない子に「上手だねえ!」「とてもよかったよ」「また聴かせてね!」とか言ってしまったら、どうなるんでしょうね。その子は自分を肯定されてしまった訳だから、傷つくこともなく、自信を持って「オレは(アタシは)は歌で生きていくんだ!」とか、

思っちゃいますよ。いいんですかそれで? その子がヘタクソだったなら「ヘタクソだねぇ」「聴いてらんないよ」「そもそも君は声を持っていないんだから、歌手になるのは厳しいよ」という本当の事を、言わなくちゃいけなかったと思いますけどね。

でも現在の日本では、自分が非難されないために本当の事を言わずに、当たり障りのないことだけを言ってその場を逃れる、というか、その場から去る、というか、そんな文化が定着しちゃってますね。だから「オレは(アタシは)は歌で生きていくんだ!」が大勢出て来ちゃうんだと思います。

それに、その状態に拍車をかけている別の要素もありますね。それはテクノロジーの発達、音響技術の向上です。ヒドイ歌手の歌も、その音を加工して加工して、一応の歌に聞こえるように変化させることが可能になっちゃったんですね。よく聴くと歌手がヒドイのは、ちゃんとわかるんですけどね。

整理すると「根拠なく人を褒める風潮」「音響技術の向上」この2つが、ヒドイ歌手に「君はヘタクソだから使わない」と言わずに済む、というか、「上手な歌手を選ぶ必要がない」状態を作っちゃったんだと思います。なんか、世も末だなあ、って思いますけど、皆さんはどう思われますか?

<歌手に必要な要素とは>                      <1 声を持っていること>
声とは、声帯の振動が、口腔内の空間で増幅と共鳴を起こして、口から出てくる音です。その「出てきた音」は、声帯と共鳴空間の状態により「美しい声」「美しくない声」に分かれちゃうんです。そして「美しい声が出る」と、本当の事を言う専門家に「声を持っていますね」と言ってもらえます。

「声を持っている」という素質が歌の勉強を始める前提です。これがないと何をどうやっても先に進まないからです。そして「美しい声」が「美しい歌声」になるには「音楽的感受性」つまり「音楽の才能」が必要です。音楽を感じ取ってそれを表現する力がないと、よい声も美しい歌になりません。

<2 美しい音程でうたえること>                   徐々に具体的にお話ししましょう。歌を歌うには、音程、つまり音の高さを、正確にコントロールすることが必要です。音楽的感受性が鋭ければ、これができます。感受性の鋭い子は「外れた音程」は、気持ち悪くて、本能的にそんな声を出そうとしないからです。

たとえ声を持っていても、感受性の部分が不全だと、「外れた音程でも平気で声を出せる」という子になっちゃうんです。こういう子を昔は「ーー」って言ってたんですけど、今はその単語、使っちゃいけないみたいなので隠しました。今のアニメ主題歌歌手の多くは、正確な音程がとれていません。

いや歌の上手な人でも、実は音程は完全に正確ではないです。むしろほぼ全員少しずつ低いです。それでいいんです。クラシックでもポピュラーでも、ほんの少しずつ低い音程、それが美しい音楽性を醸し出しているのです。上手い人は最も美しく聴こえる音の高さを、本能的にわかっているんです。

感受性の鈍い人が歌を歌うと、それができないんです。ちっとも美しくない、とっぱずれた音程で声を出すもんだから、それはそれは聞き苦しい歌になっちゃうんです。音程、ピッチというのは実は非常に厄介なものでして、機械で計測した正確な音程は、実は人間にはあまり美しく感じないのです。

実はこれ、全ての楽器でそうです。ピアノは、調律師さんが各音の弦を正確な音程に調律するんですが実はきっちりと正確にではないのです。高音域はより高く、低音域はより低く、ほんの少しずつわざとずらしてあるんです。この方法を「ストレッチ」というんですがこのずれが美しさを生むんです。

ヴァイオリン属も、ギターのようにフレットがありませんよね。あれ、私、子供の頃は、ギターはフレットがあるから正確に音程が取れるのに何故ヴァイオリンはフレットないのだろう、と思っていました。実はあれ、美しい音程を実現するためわざと自由な位置に音程がとれるようにしてあるんです。

音楽の音程、ピッチとは、そのように、機械的に正確な音程が美しく響くわけではないのです。歌も同様で、音楽的に美しい音程を出すには、音楽的感受性の鋭さが必要なのです。その感受性がない人には、大変残酷な事実ですが、美しい歌を歌うことはできないのです。

ある日こんな事がありました。私の作品のレコーディングが終わって、ミックスダウン作業中の事でした。エンジニアが私に聞きました。「この部分、歌の音程、少しだけ低いんですが、音程補正ソフトを使って正確に補正してみますか?」と。私は「やってみてください」と頼みました。

確かにピッチは綺麗に揃って、それなりの美しさはありました。しかし、聴いていてどうにも不自然で、私はエンジニアに「元の歌に戻してください」とお願いして、聴いてみました。やはり元の歌の方が美しかったです。この歌手は、私のバンドのメインヴォーカル2人のうちの1人。天才です。

美しいピッチというのは必ずしも正確なピッチではないです。それはもう、才能と声を持って生まれてきた人にしかできない芸当なのです。最近は「音程補正ソフト」なんてものがあり、音程をとれない歌手も機械で補正できる時代です。が「美しい音程」は、やはり才能ある人にしか出せないんです。

今日はここまでにします。「美しい声」と「美しい音程」の事で、長大な文章になってしましました。次の記事では「リズムがきちんととれる」「アタック音をちゃんと出せる」「ヴィヴラートに頼らない」ことについて、お話ししたいと思います。気を付けてください。徐々に危険度は増します。

では、皆さま、お楽しみに。

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