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母がうつになりまして~学生時代①~

お疲れ様です。
こねずみです。

幼少期は、両親と過ごす時間が一般的な家庭と比較すると、とても少なかったですが、それでも祖父母がよく面倒を見てくれたので、悲しくなったりとか落ち込むことってあまりなかったような気がします。

ただ、友達の家に遊びに行ったりすると、その友達は両親と暮らしているので、(お父さんが単身赴任の家とかはありますけどね)違和感は覚えました。「なんで自分は祖父母と暮らしているんだろう、両親だって近くの家に住んでいるのに」って、悩みはしないけど、薄く不思議に思う程度。

いま思い返すと具体的に辛い思いをしていたのが一つだけありました。
私が通っていた小学校はキリスト系の私立の学校だったのですが。(家系的には浄土真宗ですよ。)
給食という制度がなくて、毎日お弁当でした。
他の家の子は基本お母さんが作ってくれるのですが、私は両親が別で暮らしているので、おばあちゃんが作ってくれたりしました。
おばあちゃんが作るお弁当は美味しいんですけど、どうしても見た目が今風のものではなくて、煮物だったりがメインで。
それを馬鹿にされたのが嫌でしたね。(子供は残酷なので・・・)

母親は働いておらず、専業主婦だったので、時間に少し余裕はあったはずなのですがお弁当作ってもらった記憶がありません。
もしかすると、ちょっとネグレクトの気があったかもしれませんね。


一緒に住んで面倒は見ない割りに、ちょっとお金をかけて私立に通わせたかった気持ちがあったみたいです。
余談ですけど、公立と私立どっちが優れているって、都会だとあるんですかね。私は東北の普通の町で育ちましたが、地方だと公立の方が、いろんな事情を持った子がいると思うので、社会とかちょっとした格差とか肌で感じることができると思います。私の通ったキリスト教の私立の小学校は何となく閉塞感があった気がしますね。もちろん素敵な先生もいた気はしますが。

ちょっと人生の歯車が狂いはじめたのが、中学生になってからでしたね。

相変わらず、祖父母と暮らして、両親は別の家で暮らす日々でした。
ここで、今度は父方の祖父母の話になってくるのですが
父の祖母は私が生まれてくる前に亡くなっており、祖父が一人で暮らしていました。父祖父は、自営で壁塗りの職業をしていて、職人気質っていうのかちょっと接し方が難しい人だったと思います。とはいえ、孫の私には優しくてよく、縁日があると肩車されて連れて行ってもらいましたね。

そんな父祖父なのですが、糖尿病やリウマチを抱えていて、晩年は入退院を繰り返していました。扱いが難しい方なので、おそらくですが病院側から他の患者さんよりも早く退院を希望されるとかもあったんですかね…
病気で、細胞が壊死し、足首から先を手術で切断したり、目が見えなくなっていました。

その父祖父の面倒を見ていたのが、義理の娘の母でした。
専業主婦だったのは、父祖父の存在のせいもあったかもしれませんね。
東北の普通の町といっても、田舎なので、入退院の繰り返しとなると受け入れる病院も少なかったのだと思います。

最終的には、家で引き取ることになりました。
じゃあ、どこで看病するか。ここが問題で、父祖父の家は、この時売却に出しており、両親の家でも看るとはならず、父がマンションを買いました。
(普通の家でマンション買うとはならないですよね、このあたりも後日お話ししたいです)

そのマンションで、父祖父が一人で過ごし、母が看病で世話をする(ただし一緒には住んでいない)状況が1年くらい続きました。

私が中学1年生の夏ころですね。母の様子がある日、急におかしくなったのは。

昔の記憶がフラッシュバックするらしく、急に子供の言葉を発したり支離滅裂な話をし始めたり、遠くを見つめるようになって。私はもう(?)でした。

母の具体的な話を書くと長くなるので、いったん学生時代編はここでおしまいにします。

それでは。

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