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新聞記者たちの後悔(上)転向

検察官との麻雀事件で非難をあびている新聞記者。筆者もこの世界に10年間身を置き、いまはふつうの世界で生きているので、叩く側、叩かれる側双方の気持ちがよくわかる。

ひとついえるのは、新聞記者は、いろんな葛藤をかかえているということだ。「癒着している」「情報を垂れ流している」という批判はその通りだ。ただ、それは真剣に情報を取りに行った結果の返り血でもある。ものごとは一面的に見ない方がいい。

新聞記者はずっと「今」をおっている。「今」というのは思春期の青年のこころのように不安定で、時間がたてば評価がかわる。180度かわることもある。そんなことわかっちゃいながら、それでもなにかに追い立てられるように日々、「今」を文字に刻んでいるのが新聞記者だ。

新聞記者のこころのうちには暗い洞がある。「今」という、けっして姿の定まらない影をおってきた人間特有のはかなさ、かなしさ、わびしさ、やりきれなさのことだ。時間の経過がこの感情を高めていく。

3人の新聞記者たちの暗い洞を3回連載で描いていきたい。

サンケイ新聞の農業専門記者

かつて、サンケイ新聞(現・産経新聞)に築地文太郎(つきじ・ぶんたろう)という記者がいた。戦前にうまれたひとだ。

北海道大学農学部実科を卒業し、農林省(現・農林水産省)の試験場で勤務したのち、サンケイ新聞に入社したという変わった経歴をもっている。

米どころの秋田支局をへて、東京の経済部に配属となった。一貫して農業取材の道をすすんできたエキスパートだ。

かれが1964年に著した「農村革命~技術革新は何をもたらすか」という本がある。

ちょうど、東海道新幹線が開通し、国中が東京オリンピックで興奮のるつぼにあったときだ。この年の実質経済成長率は驚異の11.2%を記録した。

重厚長大産業を筆頭に、2次産業が急速に伸びていた。すいこまれるように農村の若者は都会の工場に職を求め、中高年の男性も出稼ぎで農村を離れた。

農業の工業化

築地が「農村革命」を著したころ、この”工業と農業の格差”がおおきな社会問題になっていた。築地は農村が大好きだった。津々浦々を歩き、どうすれば農村が活気を取り戻せるかを考えた。そんな彼が、未来の農業のために提言した政策集がこの本だ。

かれは技術革新に賭けた。”農業の工業化”に活路を見出したのだ。

本の冒頭には、農薬を散布しながら飛ぶヘリコプターの写真がおおきく掲載されている。

高温多湿の日本は雑草が繁茂しやすい。手作業での草取りが農民の負担を高めていた。築地は大規模な農薬散布により、農村の課題を解決できると考えた。

ヘリコプターで農薬を散布する農法を普及させるには、小規模な農家が猫の額のような農地を管理している限りはダメだ。築地は「請負」という専用業者が農作業を大規模に受託するしくみをすすめた。

副作用

筆者はけっして築地の打ち出した方針が間違っていたとはおもわない。小農主義が農業の発展をさまたげ、結果として農村から人口流出を加速させた面はあった。

だが、築地には落ち度もあった。”農業の工業化”の副作用に目が向いていなかったのだ。

農薬だ。

出版の翌年、新潟の阿賀野川流域で有機水銀中毒の患者が多発していることが明らかになった。世にいう「新潟イタイイタイ病」だ。

それをうけて農林省は非水銀系農薬への切り替えを命じ、水銀剤やパラチオンといった中毒をおこした農薬の製造・販売が次々に禁じられていった。築地が本で提唱した農業が招いた一側面だった。

転向

ときをおなじくして、化学物質に依存せず、有機物による土づくりを重視する「有機農法」が登場した。

同法の普及をめざす業界団体「有機農業研究会」の結成趣意書にはこんな表現がある。

「農薬や化学肥料の連投と畜産排泄物の投棄は、天敵を含めての各種の生物を続々と死滅させるとともに、河川や海洋を汚染する一因ともなり、環境破壊の結果を招いている」

築地はおのれに忠実なひとだったのだろう。青くさい書生のような農業技術者という雰囲気すら感じさせる。

かれはなんと、「農村革命」をみずから絶版にしたばかりでなく、農業観を一変させた。サンケイ新聞を退社し、有機農業の普及運動にのめりこんでいった。

1971年、かれはある研究誌にこんな”転向宣言”をよせた。

「昨日までケミカル・コントロールの最先端について報道をつづけていた筆者が、いまこうして『農薬農業からの脱出』について筆をとらなければならないのである。(中略)『あやまちを改めることに、やぶさかであってはならぬ』という。われわれは勇気をふるって近代化農業の行きすぎ、その根本的な考え方のまちがいを改めるべきときではないだろうか」

高度経済成長期を見た新聞記者の苦悩がそこにある。


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