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それがカタツムリのように小さくゆっくりな動きであっても、わたしは「動いたこと」を認めたい

タイトルの言葉は、このゴールデンウイーク中に日記に書き留めた言葉です。

息子の様子を見てふっと浮かんだ言葉なのですが、だんだんと「わたし」を表す言葉のような気もしてきました。

***

息子はこの春から中学生になりました。

小学校を卒業する前の彼は、「オレは帰宅部になってゲーム三昧の中学生活を送る!」と宣言していましたが、中学入学を機に友達と一緒に通いたいからと塾に通うことを決め、部活もそのお友達と同じ部活に入ったようです。

言動の変化に驚きつつ、ゲーム以外の世界にも目を向けたことは素直に嬉しいことでした。ゲームを楽しむ彼のことは、「好きな世界に出会えて良かったね!楽しもう楽しもう!体はこわさない程度にな!」と見守っていましたが、この世の中、面白いものはたくさんあるわけで、あまりにも一極集中するよりは、中学入学を機に新しい世界にも出会って欲しいなという気持ちを持っていました。わたしとしては、その願いがかなって嬉しかったのです。

けれど、親とは欲深いもので、いざ、他の世界に目を向けた彼を目にすると、もっとやれ、もっとやれと促したくなります。
さらに、入ったからにはぜんぶ出席しないとダメじゃ無いか、もっと努力しないとだめじゃないか!という言葉もわたしの頭の中で聞こえ始めました。

そこでハッとしました。

いや、彼は動いている。動くことを決めて、自ら動いたんだ!
彼が動いたということに目を向けたいと思ったのです。

そうして書き留めたのが
      

どんなに小さな動きでも、わたしは「動いたこと」を認めたい

でした。


就寝時、日記に書き留めたその言葉を見返していたら、
これはわたしを示す言葉でもあると思いました。

わたしは、非常に慎重な性格で、何事を始めるにも
石橋をたたいてたたいてまたたたいて、そのうちに石を割ってしまうタイプです。何かをやりたいと思っても、行動に移すまでに長い時間を要するし、ほとんど動きません。

自分のこの、行動できない性格、ダメだなあと、自己否定のタネであったのだけど。この息子のことがあってから、ちょっと見方が変わりました。

わたし、たしかに時間はかかるけど、前よりは動くようになったのです。

5年前のわたしは

 食べたいものがあっても、買えない
 読みたい本があっても、買えない
 着たい服があっても、買えない
 行きたい場所があっても、行きたいと言えないし自分では行かない
 やりたいことがあっても、やらない


頭の中に聞こえてくる
「もったいないよ、似合わないよ、おもしろくないかも、失敗するかもよ」
の声たちが、わたしの行動を押しとどめます。

それが最近では、

買いたい本は買えるようになったし、
わたしが食べたいものも買えるようになったんです。
とってもささいなことですけど。

そうしているうちに、やりたいこともすこしだけやれるようになってきて、自分の意思で動けるようになってきました。

おそらく他人から見ると、ほとんど動いていないように見えるかもしれない程の歩みでしょうが。でも、すり足で0.1歩とか、確実に動いている。

三段跳びのようにどんどん動いていく誰かを見て、わたしはぜんぜん動けていないではないかと自己否定することが多いのですが。
けれども、それがたとえ0.1歩であっても、動いたことには変わりないですよね。


歩く速さは人によって異なる。自分の速さで動けばいいし。


いまのわたしは、ひとまず、

動いたことに目を向けてみよう!

そんな気分です。

で、こんなすり足状態のゆっくりなわたしを表す言葉として、カタツムリということばもつけてみました。

いまのわたしをあらわすいい言葉ができたなあと、
日記を読み返すたびにほんわかします。

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