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私が日本茶を始めたキッカケ

現在私はカラオケ音楽制作の仕事をメインとしながらも、お茶の魅力を知っていただくための活動を行っているわけですが。

その活動をすることになったキッカケについてお話しようと思います。

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1.作曲家になることを夢見て

私はJ-POPの作曲家になることを夢見てインターネットスクールで約2年間、

音楽理論、作曲の仕方、PCを使った音楽制作の方法、ミックス、マスタリングなどを学びました。

その後、カラオケ音楽制作の会社に入社。3年間、耳コピーのスペシャリストとして本物の音楽そっくりに音楽データを作るという仕事をやってきました。

こちらの会社に3年間勤めた後、本格的に作曲家を目指し音楽スクールに通うことになるのですが、どうもうまくいかないのです。

カラオケ音楽制作をしていた3年間は自分自身が大きく成長できた期間であったことは間違いありません。ですが、私にとっては過酷な日々でした。

日々納期に追われ、いつの日か私にとって音楽は楽しいものではなくなってしまっていたのです。

丁度その頃、私は人間ドッグを受け、その診察結果を受け取っていました。

結果の内容については以前の投稿「女性の悩み」で少し触れていますので割愛しますが、命に別条のない症状ではあったものの大変なショックを受けていたことは間違いありません。

私は自分の中から音楽が出てこない、音楽が書けなくなってしまいました。

そして、沢山の作曲家を目指している人たちの中で、自分には決定的に足りていないことがあることに気づきました。

私は音楽が好きではない。と。

長年それを夢見て努力してきた私は、今後何を目標に生きていけばよいのか。途方に暮れる日々を送っていました。

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2.日本茶に心奪われた日

目標を失ったとしても、生きていかなければなりません。

なんとか生活するために私はカラオケ音楽制作をフリーランスとしてやっていこうと応募し採用され、仕事をするようになりました。

仕事が決まり、本当に有難かった。しかし毎日パソコンと向き合う日々。人と会話することはほとんどありません。

ここ最近の自粛期間中もそうでしたが、外出できず一人でいることは精神をむしばんでしまうのです。人と会って話をしたい。そういう機会を作れないだろうかと思っていたある日のことです。

私がお茶が好きだということを伝えると、(その時はただ飲むのが好きなだけでした笑)私の知り合いの方が、私を日本茶カフェに誘ってくださいました。

そこに行くと、日本茶だけで何十種類ものメニューがありました。

その中から私は「香駿」という名前のお茶を選び、淹れてもらうことにしました。

すると小さな紙の上に置かれた茶葉が渡されました。

「まず、こちらを食べてみてください。」

え?お茶の葉っぱって食べられるんですか?

ビックリした私は恐る恐る食べてみると、とてもいい香りがしてポリポリとした触感がたまらなく美味しいのです。

そして70℃で淹れたお茶、熱湯で淹れたお茶。

最後に冷たく冷やしたお茶をワイングラスに注いで持ってきてくださいました。

これらは全て「香駿」というお茶なのです。ですが同じお茶とは思えない、色々な味、香りが感じられてなんて凄いお茶なのだろう。

この時から私はカミナリに打たれたような気持ちになって、「このお茶はなぜこうなのだろう?」「他にはどんなお茶があるのだろう?」なぜ?が止まらなくなってしまいました。

この後、こちらのカフェで行われていた日本茶講座に通うようになり、少しづつ日本茶の勉強を始めてみることにしました。

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3.お茶農家さんとの出会い

日本茶のことをネットで調べていると、WWOOF という存在を知ることになります。

これは主にオーガニックな生活をされている人々の元へお手伝いに行く代わりに、三食の食事と寝泊まりの場所を確保していただくというシステムです。仕事ではないのでお金は発生しません。その代わりお互いが知っているモノ、コトの共有、寝泊まり、食事を共にすることで家族のような友人を作るというのがこのWWOOFの根本の目的なのです。

私は思っていました。人間ドッグの結果を知らされた時、もし長く生きられないと宣告されていたら・・

今は新しい命が与えられたと思って、これからの人生は家族のような友人が沢山いる人生にしたい。そういう人生を送ろうと。

この時の自分の心情とWWOOFの理念がマッチしたと確信した私は早速登録をし、野菜農家、ネパールカレー屋、個人店のパン屋さんなど日本各地の様々な方の元へ行くようになりました。

そしてあるお茶農家さんの元へ行くことになりました。

彼女は旦那さんを病気で亡くされ、一人でお茶畑とわさび畑を管理されています。私はこの時初めて「手揉み茶」というものを見ました。

初めて見たそのお茶は私には宝石のように見えました。

まっずく、きれいで艶があって。でもそれだけではありません。彼女は手揉み茶の師範でした。

何百回も、何千回もお茶を揉んできたに違いありません。その努力と年月がお茶をより輝かせているように思いました。

ですがこのお茶を作ることができないのです。

私はやるせない気持ちになりました。こんなに素晴らしい日本の宝ともいうべきものがあるのに、なぜこれを作ることができない現状があるのか。

この他にもたくさんの問題を抱えているお茶の現状を目の当たりにしました。

私には見過ごすことは、とてもできませんでした。かといって何ができるかと問われてもそれもわかりません。

ですが、この素晴らしい日本茶というものを知っていただきたい、後世の人々にも伝えていきたいという使命感にも似た気持ちが沸き起こるのです。

それは家族のような友人だからかもしれません。わからないけれど、そこから私の日本茶を始めるキッカケがスタートしたように思います。















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