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「YとFの対立は何だったのか」を一週間、考えてみて

作成日:2024.04.13
改訂日:2024.04.20

担当者:makono


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 4月11日、ネットメディア「シラス」で開催1年前に差し迫った大阪関西万博に関するシンポジウムが配信された。万博の会場デザインプロデューサーである藤本壮介氏(以下F)と2024年プリツカー賞を受賞した山本理顕氏(以下Y)の、万博に対する意見の相違から組まれたイベントだろうと思う。SNS上で一方が食い付いついているという話は聞いていたが、僕自身はSNSでの議論には関心を持てず全く事の経緯を追っていなかった。また、この文章を書いているときは『建築ジャーナル』の論考についても読んでいない。故に経緯にはできるだけ触れず、あくまで僕が見聞きした議論の内容それ自体がどうだったかということを書きたい。

 シンポジウムのテーマは「万博と建築」。討論する両者が建築家、モデレーターは建築史家の五十嵐太郎氏(以下I)、もう一人は思想家で主催元ゲンロン代表の東浩紀氏(以下A)。討論はかなり応酬が激しく、所々Aの整理や仲裁により、なんとか議論が進行して非常に充実した内容になったと思う。このような社会問題化している時事や、大きな時代背景を問うような建築のシンポジウムは、昨今ではほとんど消滅している。業界を超えて公に議論を開いているようなイベントに至っては、僕が社会人になってからはゼロといってもいいレベルにまで来ていると思う。そんなまっとうな議論がやりにくくなっている世の中、論者が面と向かって話し合うことを選択したこと、このイベントが成立したこと自体に意味があることは言うまでもない。一方で、本記事の公開時点でYoutubeの動画再生回数は8万を超えているが、見ている人は比較的多い割りには反響が少なく冷ややかな盛り上がりぶりにも感じる。
 議論の内容に触れる前に、まず公平な目線で考えたいので以下について事前に記しておきたい。キャスティングの公平さという点について、シンポジウム内での議題は、会場デザインについてと組織や運営などの万博や建築家のあり方について、大きく二つがあり、デザインについては時間的な制約もあり具体的なところまで踏み込んだ内容ではなかったが(それ以前にFにそこまで具体的な設計内容は説明できないだろう)、進め方の議論はかなり実務的な問題を扱っており、建築関係者の中でも設計の実務を行っている第三者がいないとYの主張はなかなか理解をされにくかったと思う。一方で、Yは途中で意見の反転もあり、総じて威圧的な物言いであったことは否めない。特に論点から脱線する話も多く、議論の整理が難しいところがあった。しかし後半の議論を聞いてから動画を見返すと、初めは理解できなかったYの主張が徐々に現実味を帯びて聞こえることもあり、興味深い点がいくつかあったことも記しておきたい。

 議論全体の総評は、人によっては「オワコンにどうやって価値を見出すか」という話でしかないかもしれない(ここでいうオワコンは察してほしい)。特に、いま世間で活躍しているクリエイターや同世代からは、深く考えるべき議論ではないと軽くあしらわれて一蹴されるか、静かに無かったことにされるだろう(これまでそうだった)。僕も基本的にはそう考えている。この議論に何の意味があるのかを書いたところで特に反応もなく無視されるだろう。しかし、だからこそ、実務の経験を積んでリアルな現場を目にしてきた今、こういった話題を取り上げて一度真面目に考えてみたいと思う。 事実上、同じ日本を代表する世界的な建築家と言われる両者が、なぜ同じ土俵にいながらこうも対立し、何に苦戦しているのか、業界の問題がはっきりと見えてくる。その問題の根っこには、オワコンの現状を的確に示す病的原因が存在するように思えてならない。この一週間で考えていたことを以下に記録する。


 [2]

 まずはシンポジウムの構成をある程度踏まえて議論を振り返ってみる。はじめはFの会場デザイン、とりわけ通称”大屋根リング”のデザイン意図についての説明から。Fの説明をまとめると以下のとおり。

・万博フォーマットの再評価

誰もが情報を瞬時に受け取り、個人や企業単位で発信するようになった時代、万博の価値は、1970大阪万博が象徴するような技術の最先端をお披露目する場、あるいは未来都市を構想して宣言する場ではなくなった。一方で世界では戦争が起き政治・文化的にも分断が進んでいる。そのとき、万博の「160ヶ国が一同を介して同時期、一箇所に集まり文化を共有する」(1851年以降続いている)形式そのものは、多様性が叫ばれる時代にとって非常に価値があるのではないか。そして多様でバラバラなものをひとつに繋げる形式自体を、メインパースからひと目で分かる象徴的な「丸」により表現し、会場デザインの意図として伝えることができる。

・持続可能な大規模木造と自然

万博会場の中心に何を作るかは、ある意味でその万博のフィロソフィーを表現しており、70’s万博ではそれが「お祭り広場」だった。今回、会場の中心には「森」を据えることにした(※明らかに青森県立美術館から続くFのテーマ)。その理由は、今の時代に人工物が中心にあることを疑問に思うため。つまり、もう一つの万博会場のテーマには、人工物に対する自然物、人工と自然の共生という地球環境的なテーマがある。そして、自然から回収できる持続可能な素材である木材によって万博のリングが建設され、木造の伝統を持つ日本が最新の木造技術を駆使することで、日本で大規模木造が普及するきっかけにもなり、世界の環境問題に対する明確なメッセージになる。

・全世界をつなぐ空と海

アイレベル(人の目線)で見た時、大屋根と外周部の持ち上がり(低部12mから高部20mの傾き)によって、「空」そのものが丸く切り取られて地球のように見える(※ジェームズ・タレルの作品をイメージすると分けりやすい)。その「空」は全世界の人が共有し、実際に多様なものを繋いでいる(地球をリング状に取り囲む)存在でもあり、今回の万博のコンセプトを象徴的に表してもいて、世界の繋がりを「実体験」として感じ取れるのではないか。そして大屋根によってリングの内側だけではなく外側、つまり護岸の「向こう側」にある「海」を見渡すこともできる。70's万博では技術の最先端である大屋根を原始的な太陽の塔が突き破り丸い穴を開けたが(※技術と生命を対置するのではなく、進歩によってそれらを接続することがテーマとされた)、その穴を育てて広げ、より多くの人(実際に世界各国のパヴィリオン)がリングを共有できるようにして大阪の地に戻すことを考えた。

・丸の意味

丸の持つひとつながりの全体性が今の世界を指し示すには適しているのではないか。同時に丸は求心性があり強い境界を持っているが、実は大屋根の下は壁ではなく、通り抜けられる状態になっている。つまり、閉じていながら開かれていることで(※Aが『訂正可能性の哲学』で再定義する家族の概念に近い考え方)、多様でバラバラなものが繋がっている状況が生まれる。

・その他、諸機能

海の展望希望、動線計画として均一的な交通量の分散機能と雨除け・日除け機能、会場イベントとの対応など。

 ここまでで端的に理解できるのは、Fは建築の持つ「場」の可能性に言及するものの、基本的には、もはや万博のコンテンツを建築や都市といった会場デザインが担え切れないことは自明なので、それは認めて建築にできることをやりましょう、といったスタンスをとっていることである。この態度表明こそが、その後のYとの対立に常に付きまとっていることを前提にしなければ、議論の背後にある対立は見えてこない。その意味でFは素朴なリアリストなのである。
 また、建築とコンテンツの関係について、1970大阪万博と2025大阪関西万博は同じ問題を繰り返していると言える。ただし、お祭り広場においては制御不能なコンテンツにいかに建築側が対応するのかを重要なテーマとして据えていたのに対し、Fが半ばコンテンツを切り離したところで思考していることは興味深い。

 Fの説明の中であまり中心的な主張ではないが、建築写真の高い拡散性を意図していることと、非言語的なコミュニケーションとして形態論を語っていることは、Fの建築的特長だろう。このある種の「分かりやすさ」が同業種の間では批判の的になることも少なくない。“ばえる”建築写真をSNS投稿して、集客効果を狙うことは今では当たり前になっており、筆者と同じ世代ではインスタグラムから仕事につながる話もよく聞こえてくる。その”ばえる”建築と形態的な分かりやすさ(ダイアグラム)は非常に相性がいい。Fはこの特性をよく理解し、言語の壁を超えてつながる方法として利用し、万博と建築に意味を見出そうとしているわけである。

 もう一つ現代的な潮流と明らかに足並みをそろえている意図があるように思える。気候変動や人新世のようなテーマは言うまでもないので省くとして、Fの説明通り、最新技術を示すメディアが建築ではなくなった今、会場の中心が未来を指し示すもの(建築家にとっての1970大阪万博におけるお祭り広場)だとすると、Fによれば未来は建築などの人工物(=人間)が中心ではなく森(=自然)があるということになる。人が消えた空白地帯には自然があるという(ディストピアSF的な?)未来像はポストヒューマン的思想と親和性が高く、人為的に移植された森という事実に照らして別の言い方をすれば、テーマ館プロデューサーの落合氏が提唱するデジタルネイチャー的な自然と化した人工物を連想させる。
 さらに付け加えると、会場全体は国内パビリオン、大屋根リング、海外パビリオン+テーマ館、森の順に外から内へ構成される。人工物と自然物の構図を象徴的に整理すると、パビリオンは人工物、大屋根リングは木を象徴的に扱っているので自然物(という位置付けにFはしたいのだと思う)、森はもちろん自然物ということになる。興味深いのは、万博会場という極めて人工的な開発地の中心は結局「小さな自然」であったという転倒、つまり、会場の中心で主義主張を表明するはずのメインパビリオンを、あえて自分は設計しないという意思表明(に見せかけるオトリ)として森を使い、実質的なメインパビリオンが「大きな自然」を象徴する建造物として万博=世界を覆うという、1970大阪万博への応答がなされている。入れ子になった構造は、Fの言葉では「地球/地表(=人間の生息域)/大気(=空)」としてさらに抽象化されて語られている。
 こうしてFは、森や空という批判しようがない対象をコンセプトに持ってくることで、内容の良し悪しが問われるメインパビリオンの重責をアクロバティックに回避し、建築家がイデオロギーを語る/語ることができる時代がもはや終わったことを表明してみせる(皮肉なことに回避した先の木造が巨大な着火剤となり炎上したのだが)。

 以上の図式はFの「分かりやすい」建築的特性そのものを表している。抽象的な話を象徴的な形に置き換えると、連想ゲームが勝手にはじまり何か複雑そうに感じるのである(ダイアグラム的弊害)。そして実務家はこう考える。その想像力は素晴らしいけど実際のところ本当に効果があるのか?と。
 さきほどFはリアリストであると記したが、突き詰めるとFという建築家にも、設計した建築にも、戦略的リアリストであり思想的ロマンチストという側面が見えてくる。これがFをアーティストやポエマーと揶揄している建築家(誤解がないようにしたいがアーティストや詩人を否定しているわけではない)が違和感を覚える所以ではないだろうか。しかし、Fの夢や理想の実現の仕方に共感はできても評価はできないが、その裏にあるFの野心には興味がある。

 もう一度、会場構成の話に戻ろう。建築家としてコンテンツを制御できないという現実に対してFが出した答えは、配置的にも中心的な立場から撤退する代わりに、会場の枠組みを支配する「外周」をコントロールする戦略だった。ある意味で、表向きには非集権的なふるまいで、裏ではしたたかに全体を制御しようと試みている。実際にパビリオンの高さはリングより高くならないように、高さ制限が課されているらしい。中心の森には水場があり、まるでオアシスのような存在だが、だとするとその自然を囲む人工物は砂漠を意味し、そこから非難してきた人を自らの建築=疑似自然が救い上げるという自己演出的な物語にも思えてくる。
 もし来場者がこのリング外周の全貌を外側から見ることができないとしたら、「万博の外観」はメディアでしか見えないことになる。Fは結局のところ、建築の外観を超えた外観を作りたかったのではないだろうか。


 [3]

 シンポジウムはFのプレゼンが終わり、いったん質疑に入る。時間の都合もあるだろうが、コンセプチュアルな話の目立つプレゼンだったため、良い話だと共感する人もいれば、ポエムはいいからコストパフォーマンスや実質的な課題解決を問うようなコメントも寄せられていた。理念の実現方法、実現したものに対する評価や価値判断には賛否両論(筆者は明確に低評価をつけたい)あり、その審査は今後厳しくされるべきプロジェクトだろうが、おおむね理念そのものに対しての反論は少ない。
 ここから議論は、その実現方法、特に建築の設計プロセス論に力点をおいて進んでいくことになる。登壇者の感想は省略するが、論点につながる主な質疑応答を以下に要約する。

①残すべきか論争

I:万博と都市開発の関係を歴史的に見ると、(建築家や都市計画家の役割ではなくて、行政が検討する話かもしれないが)都市開発としても機能してきた万博会場の有用性は今回どう考えているのか。万博後の活用を検討して残すべき。
F:残すか残さないかは、歴史的には結果的に残ったもの、実際に残っていないものもあるため、今後議論されることが重要で、一部残置や移転、部材転用など柔軟に考える必要がある。従って現時点で決めるべきではない。また、あくまで万博の価値を改めて広く共有することが今回の万博の役割と考えていて、大屋根を残す、残さないという議論はあまり意味がない。
Y:会場デザインプロデューサーという立場で、多額の税金を使う施設の考案者であれば、万博会期後はどうあるべきか指針を提示するべき。記憶に残るという理想ではなくて、実態が残り都市計画として受け継がれていくことによって、万博で示す未来が多くの人に共有されるのではないか。

②責任者論争

Y:誰がプロジェクトの責任を負っているのか、意思決定の主体が明確ではない。1970大阪万博のようにプロジェクト全体の責任者は会場デザインプロデューサー(丹下健三、西山夘三)にある。
F:事業主体や組織体系ははっきりしている。最終的な決済者は万博協会という組織や事務総長で、事務的な意思決定をしている。ただ、事務方の動きを世間は後から知ることになるから不透明に見える。事務方とプロデューサーの役割は区別するべき。1970大阪万博のように会場デザイン以外にもプロデューサー(小松左京、梅棹忠夫、泉靖一、堺屋太一、岡本太郎など)はいて会場デザインプロデューサーがプロジェクト全体の責任者ではない。

 ①の論争は、べき論についてはYの主張が正しいかもしれない。だからFもそこまで反論はしていない。大屋根リングにだけ焦点をあてても、実際のところ万博全体の建設費と比べても大屋根リングの金額は2割に満たない。夢洲の開発費と比べれば1%にも及ばない規模である。しかし350億円という数字だけ見れば、その税金の使い方に対して考案者であるFは利用価値を最大限に検討すべきである。その上で、基本的にはFの方針で問題ないと思う。さらに検討のための費用が必要なら国に請求してもいいだろうが、時間が経つにつれ活用の可能性は狭まっていくことになるので、すぐにでも動き出してもらいたい。
 さて、②の論争がシンポジウムの本題である。つまるところ、YとFの対立は何を前提にしているかの違いでしかない。それぞれの主張を少し言い換えて整理してみよう。Yは統括するプロデューサーに“決定する”責任があり、それを事務方が“協力する”立場だと考えている。Yの定義するプロデューサーは「建築家」であり、責任とは「権利」を意味する。それがFの考えでは、様々なプロデューサーに“提案する”責任があり、それを事務方が“許可する”立場だとされている。このときプロデューサーは「監修者」であり、責任とは「業務」なのだ。要するに、一方は建築家の可能性を改めて説いていて、一方は建築設計の請負業務のあり方という極めて実務的な話をしている。
 正直、AやIからのコメントにもある通り、建築家の立場や役割が変わったことを前提に話しているのがF、1970大阪万博と同じ時代感を前提に話しているのがY、という整理で話を終えてもいいだろう。Yの主張の根っこにある前提でいくら議論しても意味がない。そもそも建築を目的に語る大御所こそ、今の建築の停滞ぶりを象徴している。建築は手段である。ただ、実務的な問題として改めて議論を整理してみると、別の角度で対立が理解できる。


 [4]

 次にYからのプレゼン。能登半島地震について、シンポジウム内では争点というよりも前向きな万博との関わり方が話された。簡単に感想を書く。
 震災復興が急務な時期に、万博の計画を今のまま進めていいのか問う声、あるいは計画の見直しを提言する声は、Yに限らず様々な意見があるだろうと思う。Fにも計画の見直しを行う責任まではないし、大屋根リングに至っては既に8割建設が進行しており、見直しを行う合理性はない。故に、能登半島地震を理由に中止・延期論争を展開するのは少しお門違いだと思う。一方で、被災地の方々は今現在も大変な思いをしていることも事実なので、自分たちに何ができるかは考えないといけない。筆者の実家も震源地からは離れていたが石川県にあり、七尾や内灘の被災状況を見てきたところだ。
 YからFへのお願いとして提案されたのは、被災者が経済的に自立できるように万博からも支援してほしいということだった。万博の経済効果や広告塔としての機能が復興支援に活用できるため、例えば万博会場で能登の商品を積極的に取り扱ったり、能登から万博に出店できる仕組みをつくってほしいといった内容で、このお願いにはFも賛同して動いてくれることになり心強い。この話を聞きながら、被災地を見て記憶に残った光景を思い出していた。液状化が深刻な住宅地を歩いていたとき、あたりの家はみんな避難して人の気配が消えている中、ひとつの社屋の明かりがついていて、社員の方が普段の日常のように働いている様子があった。もしかしたら地震で散らかった備品を整理していたのかもしれないが、とても印象に残っている。その建物は液状化の影響で地面が沈み傾いている状態だった。
 被災した人は生活を立て直すにもお金が必要になり、その後、安定した収益を得られるかも分からない状況にある。復興と職はセットで考えなければならないという指摘はその通りだと思う。万博の取り組みには期待したい。

 責任者論争に話は戻るが、改めて、Yからの主張を分かりやすくするために、2025大阪関西万博の建築にまつわる主張に絞って以下に整理する。議論のやり取りの時系列を多少前後させることになるが、責任者論争に関してはここでまとめて総括する。

②続・責任者論争

大屋根リングの設計に関わる主体を上から任命順に並べる。
・万博協会
・シニアアドバイザー:安藤忠雄
・プロデューサー:藤本壮介
・基本設計者:東畑・梓設計共同企業体
・実施設計者:大林組、竹中工務店、清水建設

そのとき、各主体の選定プロセスとして2つ問題がある。
2-A シニアアドバイザーとプロデューサーの選定理由が公開、説明されていない。
2-B 基本設計者の選定方法は公的事業の簡易コンペ(プロポーザル)方式として不備がある。

そして、基本設計者を選定したコンペの問題として具体的に以下を挙げる。
・設計料も提出要件に入れることで安普請になってしまう危険がある。
・プロジェクトの規模の割りに提案数が少なすぎる。
・審査の過程や選定の根拠が不透明で説明が少なすぎる。
・審査員の人選の根拠がなく不適切な可能性がある。

 まず、2-Aの指摘についてはFが関わる前のプロセスで、日本の政治的な問題として毎度おなじみの件だ。もうそろそろ普通にちゃんとしてほしい。
 2-Bの指摘についてのFの回答は、会場デザインに限らず、万博全般のコンテンツや進行過程が世間にあまりにも見えないという指摘を受け止めて、情報を公開するようプロデューサーとして働きかけることで落ち着いた。おそらく、今回の万博は広報という面で現状失敗しており、基本設計者のコンペの周知も実際に甘かったところはあるのではないだろか。ちなみに、公金を使う方針決定となると、大屋根リングの構想採択時の資料(まさかラフスケッチと簡単なCGパースでGOが出たのだろうか)など、プロデューサーの提案や案の採択のプロセスも公開されるべきだと思う。
 続いてYは責任者論争を「誰が設計者か論争」に発展させる。

・設計請負契約者としての責任者

設計内容に対して責任を取るためには契約を結ばなければならない。契約を結び責任を負うことで、設計を行う権利と義務を請け負い、業務責任の遂行をもって報酬を受け取る。それが設計請負業務である。その意味でFは、契約上は責任を負う権利や義務を有していないため、設計者ではなく発案者に過ぎない。

 ここでYが言いたいことを翻訳するとこうだ。「最近の建築家は監修という曖昧なポジションに甘んじて、責任を取る覚悟もなく、名前ばかり売りに出すが、それで設計者だと名乗る資格はあるのか。名前を貸しているだけのアイコン的な存在で実態として何もできていないのではないか。」と。もっと噛み砕いて言うと、「契約上のクレジットでちゃんと公開して設計主体の関係をはっきりさせろ」みたいなことで、この話自体はめっちゃ普通である。

 初めに書いた通り、Yの責任論には建築の実務をやっていないとなかなか理解しにくい論理がある。建築は様々な関係者が絡み、様々な思惑が交差するなかで長期間にわたり関わる必要がある。その中で設計者が自分の意図や判断を“純度高く”プロジェクトに反映するためには、契約によって設計内容に対して責任を負う代わりに、その設計の舵取りを行う権利を獲得しなければならない。少し長くなるが、詳しく解説しよう。
 建築設計業務をややこしくする理由は、建築行為が私的な活動でありつつも公的な側面を否応なく持ってしまう性質にある。建築の業界には、施主・設計者・施工者は対等な立場を築き、お互いの判断に対して問題がないかを確認することで、法律の順守義務や公平な判断、社会的な価値(公共資産)を維持・増幅すべきだという慣習がある。そこで設計者は、施主や施工者のコスト至上主義や妥協を抑制し、建築の完成度=設計者の意図の純度を維持するように働きかける。もちろん、対等な関係なので設計者は独断を抑制される立場でもある。
 そのとき、この社会的な全体最適化の論理が、建前上もっとも強力な設計の主導権を握る理屈として持ち出されるのである。つまり、設計業務を請け負う契約をした以上は、その業務に対しての社会的な責任があり、施主や施工者の判断に対しても、設計責任者として専門的な知識や技能をもって、設計内容の決断を行う義務がある。それを前提にしないと、逆説的に、設計者に設計内容を決める権利がなければ、設計責任を負えないため、設計業務を請け負うこともできない。
 以上の考え方をベースにして、出資元である施主の権力に対抗し、現場の責任を負う施工者の権力に対抗する。このパワーバランスを契約によって確立しなければ、設計する権利が確約されない。だから契約していない状態は、事実上「設計する権利がない=設計した証拠がない」という論理が成立する。従って、基本設計以降の「設計者」としてクレジットされる権利も契約上ないということになる。
 現実には契約上の施主・設計者(Fではない)・施工者は、Fを設計者の意見としてある程度聞き入れていることもあるはずだし、Fは設計していると言うことはできる。ただし、契約上の施主・設計者(Fではない)・施工者たちは、Fの意図を聞き入れる責任や義務はないし、彼らにクレジットを決める権利がある。もしかしたら、大屋根リングの著作権も契約上Fにはないのかもしれない。

 Fの論理では、権利=責任はなくても設計はできる。Yの論理では、権利=責任がないから設計をしてはいけない。Yとしては権利=責任がないからプロデューサーの権力も弱いはずで、Fの判断が建築に反映されている証拠がないので“純度も薄い”と考えていることが、ようやく理解できてくる。Yは建築というもの、特に万博会場という公的建築を象徴するものが、否応なく持ってしまう公共性と権力=権利=責任の問題として最初から話しているのである。
 筆者も途中までYの乱暴に聞こえる主張に対して理解に苦しんだが、「契約外の業務をするような余計なことをやるな」という発言は、実務の世界では「業務外のことをやっても責任とれないし報酬ももらえないからやるな」に言い換えられる。「設計業務を請け負えないならプロデューサーをやめろ」というのは「設計する権利が確約されていないから後から設計者ではないと言われてもしかたないからやめろ」と。契約制度の説明をした後に、コンペ制度の話になり「制度の話は置いておく」といった、ややこしい発言なども重なり意味が分からないことになっていたりもした。Yは批判したい気持ちも、自分が関わっていないことに対する不満も人間だから無かったとは言えないと思う。しかし、実は本当に本心でFにアドバイスしようとしていることも疑いようはないと思う。
 ここまで詳しくYの主張を説明したのは、実務経験の中で、確かに上記のような論理武装をしないと、様々な場面で自分の意図を通すことができなくなることを知っているからだ。建築とは実際にそういう側面があることもまた事実であり、Yの論理もあながち間違いとは言えない。建築は「作品」というにはあまりに制約が多い。

 さて、先ほどFは建築設計の請負業務を当たり前のことのように話していた。しかし、今度はYが設計請負業務の定義を言い直している。後にもう一度まとめるが、このねじれは、建築家の現状を率直に表しているように見える。
 次にFは万博個別の問題として、このような返答をする。

問題1
現実的に個人設計事務所が基本設計から実施設計まで請け負うことができる業務規模ではない。

問題2
公的事業(コンペ形式)で発案者が自らを設計者に選び、設計業務を請け負うことは制度的に問題がある。

だから、基本設計以降の契約はできない。

 この辺りからYの主張が紆余曲折したり、それにつられFの理解も追いついておらず、議論が何度もループし始めるため、いったん論点を絞っておくと分かりやすい。
 問題2はYも認め、問題1の議論が持ち越される。そのとき、コンペ形式で設計者を決める場合は審査員が自分を設計者に選ぶことはできないとして、公的事業であったとしても契約時に業務内容としてどこまで設計を請け負うか(基本設計まで、実施設計まで等)決めることはできる(少なくとも発注者に提案することはできる)だろうという反論があり得る。従って、個人設計事務所が大屋根リング規模の設計を、Y的な設計密度で行うためには、どういうやり方が必要なのかが問われ、このような説明がされる。

 1970大阪万博を例にすると、会場デザインの責任者であるプロデューサー(丹下)が担当設計者(黒川や磯崎)を指名して大屋根の設計責任者(最高責任者)になった。
 あるいは、一般的な設計請負業務で言えば、契約上で自分が設計責任者(最高責任者)になり、共同設計者や各専門設計者(構造や設備など)、協力業者へ業務委託して、大規模の設計を行う体制をつくることは一般的である。
 公的なものや規模が大きいものほど責任も重くなるため、必要であれば保険に入ることも可能である。

 契約の体系化により責任の所在を明確にすることは、むしろ社会では基本的な知識だと言える。ただ、それがYの主張する「全ての責任を負って“純度の高い”設計を実現する方法論」だとしても、現実問題として、Yのやり方にしても、Fのやり方にしても、設計の全てをコントロールすることは原理的に不可能でもある。故に、コンペで案を選ぶか、案をつくる業務委託先を選ぶかは、契約上の責任があるかないかの違いでしかなく、純度の高さは程度の差なので人によって判断が変わるものでしかない。そして、究極的にはFが設計者かどうかは個々人の判断による。よって、最終的にFは基本設計以降も関わっていること、名目上ではあるが責任を取ることを弁明し、議論は幕を閉じる。


 [5]

 突き詰めると、YとFの対立は、「設計プロセスにおける意思決定の方法」の対立であり、YはFの方法を批判し、逆にFはYの方法もひとつの選択肢だとして肯定している。ある意味はじめから分かりきっていた結論でもあるが、時代の流れに逆らおうとするYが、一方的にFを批判している構図が再確認できる。
 Aは議論の途中で凄まじい理解力を発揮し、かなり早い段階から論争の終着点のとても分かりやすい要約を行っている。以下、発言をほぼそのまま記す。

 こんなデカいプロジェクトを受けるんだったら、藤本さんはもっといろんな人たちとジョイントを組んで、しっかりしたチームをつくって、ちゃんとプロジェクト全体のグリップを握れ。いま藤本さんは単なるデザイナーであって、広報にうまい具合に使われているだけじゃないか。自分では責任を取ると言ってるけど、いざとなったら、いつはしごを外されるか分からないし、そうなった時どう責任とれんだよ。

 でも、そしたらやっぱり世の中変えられないし、社会に対して影響力がないんですよ。(……)みんなが影響力ないって言って、しっかりグリップ握って正しいことやってたら、やっぱし世の中変わらないわけで。藤本さんはそこで、もしかしたら山本さんの観点からしたらいい加減かもしれないけど、間違いを起こさない範囲で、がんばってくれている。

 国や社会の状況ってどんどん変わってますよね。そのときに、山本さんたちの世代は個人でグリップを持ちながら、公共を動かすことができたのかもしれない。でも、今はやっぱりすごい難しいと思う。(……)それはやっぱり世の中が変化し、社会が変化し、すごい妥協しないと大きい公共性って担えなくなってる時代だと思うんですよ。僕はそういった点で、決して藤本さんが公共性を諦めたとは思わないんです。

 ほとんどこの発言で終了なのだが、このシンポジウムの総括は、建築家だけでなく知識人全般の影響力が衰退し、情報社会の新しい産業が世界を動かしているような、経済至上主義が優先される世の中で、建築や建築家に対する予算も期待も当たり前だけど今はすごく少ないし、その中でなんとかやるしかないよね、という現状追認に尽きる。
 あえて、Yの理想論の肩を持つとしたら、現代の建築家が時代や社会の変化に適応した監修者という立場の危うさに一石投じている点だろう。この「監修」という言葉は昔からよく使われていたのかは分からないが、建築に限った話ではなく、最近は特に目にする機会が多くなった気もする。「〇〇監修!」のビジネス書やサプリメントみたいな広告は毎日のようにネットや街で目に入ってくるし、確かに何を根拠にしているのかも分からない詐欺っぽさがある。あるいは、「説明責任」も最近は良くニュースで取り上げられるが、政治的責任の責任は実態として自分の判断でしかない名目上の責任を象徴している。「監修」という言葉には、そんなきらいがあることは事実である。そして、建築のクオリティ=純度の高い設計内容の実現は、監修者にとって難しい側面もあるだろう。

 しかし、このシンポジウムで真に問われていた建築的なテーマは、「建築家=設計者」という時代は終わったことではないだろうか。YにしてもFにしても、なぜ「設計者」でいることにこだわっているのか。もはや設計者が誰なのか判別できない次元に突入しつつあることに対して、建築家はどう立ち回ることができるのか。純度の高さといったとき、今の時代に求められている純度とは何なのか。
 Fが無意識に体現しているのは、「建築家=監修者」の確立かもしれない。Yが批判する建築家たちは同じような監修者が多そうだ。今の社会で建築家が求められているのは表面上のエッセンスであり、それ以降の設計に報酬を払いたいと考える人は規模が大きくなるほど減っていく。この流れは数十年続いているような話だと思うので今更ではあるが、監修者として建築設計を請け負うことが当たり前になっていくだろう。ただ、現状は監修者として大きなプロジェクトに入り込むことに成功しても、細かい設計は無償に近い形で関わることしかできないのかもしれない。

 以上、話のまとめに入りたい。
 Fはプレゼンの時点で、ポエムのような理想を語るリアリストだと書いた。あるいは、プロデューサーの業務を建築設計の請負業務のあり方と表現した。一方で、Yは一貫して理想的な建築家像を説きながら、極めて実務に即した理論を語っていた。
 どちらも実務的な建築家像を前提にして、それぞれ設計者と監修者の理想形を体現しようとしているとも言える。この両者の対立は、現代社会が突きつける建築の理想と現実の中で、シンポジウムの議論のようにぐるぐると回っている「建築家」という存在の現状を、見事に象徴しているように思えてくる。
 先ほど政治を例に出したが、設計プロセスを今の日本の官僚主義に例えて、一方は、政治家のように大きな方針を打ち出した後は官僚の作成する文書を読むマスコット的な存在で、一方は、役人のように厳密な手続きでものすごい細かいところまで目を光らせる生産性度外視のマッチョな存在、というと言い過ぎだろうか。
 筆者としては、このシンポジウムを視聴し、いま乗り越えるべき対立がとてもクリアになったような気がした。プロジェクトの指揮権を握るには建築の中でこだわる以上、限界がある。またプロジェクトの体制においても、施主・設計者・施工者といった主体が解体されつつある。同じような変化はプロジェクトの対象やツールにも表れてきている。


 [6]

 最後に、Iからのプレゼンのハイライトも記録しておきたい。内容は万博と建築の歴史、日本における地方博の流れを概観したもので、万博の成功/失敗の基準や世界都市博覧会の裏話が面白かった。
 特に、19C後半から20C前半の万博モデル(大阪万博の集大成)から、20C後半のテーマパークモデル(ディズニーランドの誕生)とオリンピックモデル(全世界同時配信のスポーツコンテンツ)へ、という話は興味深く、21C以降のモデルはどうあるべきかという議論に発展しなかったことは残念だった。ただ、最後にIから21Cは地方芸術祭モデルが増えたという指摘がなされ、それに対してAからは、原広司を起点に山本理顕、北川フラム、吉見俊哉の活動を位置づけることで、建築と芸術(と社会学?)を横断する議論の可能性が示唆され、とても熱い展開になった。

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