『異端反駁』第5巻 第16章(エイレナイオス)

第5巻 第16章  我々の身体は地へと還る。それはその実質をそこから得たことに従う。それでまた、「言葉」の到来によって、我々のうちの神の形がより明るい光のうちに現れたのである。


1節

そしてアダムは我らが属するこの地から形造られたため、聖句は神が彼にこう言ったということを我々に述べる。「あなたの顔の汗においてあなたは自分のパンを食すだろう。あなたが、自分がそこから取られた塵へと再び還るまで。」[創世記 3:19]それで、死後、我々の身体はどんな他の実体へと還ることもないならば、その[還るところ]から[身体]は[それ自身]の実体を得ているということが従う。しかしもしまさにこの[地]中にその[実体]があるとするならば、人の型が造られたのもそれからであることが明白である。主も、まさにこの実体から[視力を与えた]かの人のための両目を形成した際に明らかに示した如くである。そしてこのようにして、神の手が明らかに示し出された。その[手]によってアダムが造形され、我々もまた形成されたのである。そして一なる、そして同一である父がおられ、その方の声は初めから、終わりまでも、彼の作品と共に在り、そして福音を通じて、我々がそこから形成されたところの実体は明らかに宣言されている。それゆえ我々は彼を差し置いて他の父を追い求めるべきではない。また、前述の、そして主によって示し出されたものを差し置いて、我々がそこから形成されたところの他の実体も[追い求めるべきでない]。また、初めから終わりまでも、我々を形成し我々を命へと備え、彼の作品と共に在って、それを神の像と似姿へと完成させるところのものを差し置いて、他の神の手を[追い求めるべきではない]。


2節

それから、また、この言葉は、神の言葉が人と成された際に明示された。[言葉]は自身を人に似せて、また人を自身に似せた。それで、人は[御]子と自身との類似によって、父にとって大切になる可能性がある。というのも、長い過去の諸時代において、人は神の像に従って造られたと言われたが、その[神の像]は[実際には]示されなかったのである。つまり、人がその像に従って造られたところの言葉はまだ不可視なものであった。またそこで[人]は容易に類似性を失ったのである。しかしながら、神の言葉が肉となった際に、彼はこれら両方を確証した。すなわち彼は真に[神の]像をも示し出した。彼は彼自身、すなわち彼の像になったのだから。そして彼は確実な様式でその類似性をも再確立した。人を、可視の言葉を通して、不可視の父へと似せることによってである。


3節

そして主が自身を明示したのは、前述の諸々のことだけによってではなく、また彼の情熱によってでもある。というのも、初めに、ある木についての機会に際して起こった人のあの不従順[の効果][創世記3章]を処分して、彼は死へ従順となったのである。それは十字架の死へまでもである。[フィリピ 2:8]木の故に起こった不従順を、かの木[十字架]の上で[働いた]あの従順を通して修正した。さて彼は、もし彼がまた別の父について宣言していたとすれば、あの同じ[像]によって、我らの造り主に対して負ってきた不従順を処分すべく来ることはなかったであろう。しかし我々が神に不従順を為し、彼の言葉に対して認証を与えなかったのはこれらのもの[体]によってであったために、彼が彼の言葉に関して従順と合意をもたらしたのもこれらの同じ[体]によってであった。これらのことによって彼は明らかに神自身を示し出している。確かに我々は[この神に対して]最初のアダムにおいて、彼が[神]の掟を実行しなかった際に、背いた。しかし第二のアダムにおいては、死へまでも従順と成され、我々は和解させられた。というのも我々は、他の誰に対してでもなく、初めに我々が踏み越えた掟が[帰する]ところの彼に対してこそ、債務者であったのである。

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