古井由吉『杳子』読書感想文


よく晴れた春の日暮れはどうしてか泣きたいような気持ちになります。暖かい空気が日没とともに、含んだ水分をそっと染み出させるような。肩に触れた涙が洋服にじわりと染み込むような。優しくて温かな悲しみの膜に体が撫でられているような感覚になります。
春の雨は好きです。何もかもをゆるしてくれているような、そんな緩やかなリズムで不確定な実存を包み込んでくれます。

さて、コーヒーのペアリングにと久々に古井由吉の『杳子』を読み返しました。
政治的イデオロギーから距離を取り、人間の内面を描く「内向の世代」を代表する作家の一人で、1971年には上記の作品『杳子』にて第64回芥川賞を受賞しています。

わたしが古井由吉を知ったのは2020年の冬、彼の訃報を知らせるニュース記事でした。代表作である『杳子』を読み、今まで読んできた作風のどれとも違う、その過剰なまでの繊細で緻密な文章の表現に驚きました。そしてやっと知り得た彼の世に出た作品をこれから何冊も読むことができるのかという喜びと同時に、同じ時代に生きていた偉大な作家が私の知らぬうちにこの世から居なくなったのか、と呆然とした喪失感を味わいました。

良い文章との出会いは、ページを巡る自分自身と本との間だけの断絶された世界の中で、自分だけが萌葱色の透けるような柔らかな新芽を見つけたような気持ちになります。芥川賞を受賞するような有名な作家なのだから自分だけが知っているなんて訳はないのですが、文章と世界との間にわたしという存在が介在し、知覚したそれは、わたしにしか感じ取る事ができないものなのですから、あながち間違いではないのかもしれません。


『杳子』は神経症を病む女とそんな彼女に惹かれる主人公との二人の閉じた世界の話です。
杳子の病は境界線パーソナリティ障害ではないかと言われているそうです。自分と他者との境界線が曖昧になり、物事が自己に傾れ込んできてしまうの病気です。

冒頭で主人公は山の谷間で座り込んでいる杳子と初めて出会います。彼女は岩屑が重さを持って頭の中へ傾れ込んでくるように感じ、その場で動けなくなっていたのですが、主人公の腕に寄り添ってなんとか下山します。まさにそのシーンに杳子の性質がそのまま表されています。またピッタリと寄り添って歩くシーンがたくさん出てくるのですが、肉体の触れ合いが示唆するように次第に主人公と杳子との境界線が曖昧になったり、ふいにひき離れたりと、彼女の病と主人公との関係性が見事に芸術に昇華し描かれています。

わたしも杳子と同じ病を抱えていて、カウンセリングによって寛解しましたが、それは無くなった訳ではないのです。いまでも自分の性質というものを十分過ぎるほど理解しています。

季節や音、風、声、表情、色んなものが頭の中に次から次へと傾れ込んできて、私はすぐにクタクタになります。インプット量が多すぎて、些細な物事をすぐに忘れるのに、会話の一言一句まで覚えていたりします。あまりに社会活動に向いていないと思いつつ、この心がとらえる美しい世界に包まれている心地よさは私にしか感じられないのだと閉じた心がそのまま世界に内包されるように感じます。

最初こそ批判的な意味で「内向」と呼ばれた世代の作家は、内に閉じることで外をより顕著に表して社会のそのままを表現していると言われて時代を台頭する一派となりました。わたしは閉じた心すら集合的無意識に溶けて社会と一緒くたになるのだと感じます。こんな閉じた文章を書いている事に深い孤独を感じながら、わたしは暖かい春の夜に溶けて社会に混ざり合っていくようにも感じます。そして、今日も誰かの涙が春の雨となって私の肩を濡らします。

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