ノルウェイの森

私が初めてノルウェイの森を読んだのは、たしかまだ高校生のころだった。授業合間の休憩時間に、鮮やかな赤と緑に装丁された文庫にかじりつく私を見て、現代文の先生は「高校生には少し過激じゃないかな」と笑っていたが、今思うといつも本ばかり読んでいる私を温かい目で見守ってくれていたのだと思う。

私はあの頃、直子であり、緑でもあった。両親の離婚やなんだでもう十分過ぎるくらい傷ついていたし、損なわれ歪んだまま大人になるのが恐ろしくてたまらなかった。ただ一つ違ったことは、自分自身の半身にまだ出会いもせず、失ってもいなかったという事だ。

『海辺のカフカ』にプラトンの『饗宴』についての話が出てくる。『饗宴』では、人間はもともと男と男、女と女、男と女の二体一対の生き物だったが、神によってその体を引き裂かれ、失った半身を探し彷徨い続けているのだという。

直子にとってのキヅキとはそのような存在だったのだと思う。幸か不幸か生まれてすぐに自らの半身と出会い、しかしキヅキの自殺という形で再び体を引き裂かれてしまったのだ。自分自身同然にぴたりと寄り添いながら育ってきたキヅキが何の相談もなく死んでしまった。それは文字通り身を裂かれる思いだったのだと思う。そして、歪に損なわれたまま二十歳を迎えた直子は、以降誰の肉体も受け入れることも出来ず、その半身に死の影を纏いつづけていたのだろう。

反面、みどりは生の匂いをほとばしらせているように感じた。傷つきながらも地に足をつけてワタナベを見続けていた。

「人生はビスケットの缶のようなもの。自分が好きなものばかり食べてしまうと残りはそうでないほうが残ってしまう。」

このセリフ時は苦労してきたからこそこの先は幸福が待っているはずだ、という彼女の人生観をよく表している。

「いままで十分傷ついてきて、これ以上傷つきたくないの。私を愛するなら私だけを愛して。」

と言う彼女は、直子とみどりとの間で揺れているワタナベの気持ちに気づいていたのだろう。私には、それはさながら、生と死の間で揺れ動いているようにも見えた。


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