鬱病虐待サバイバーが自家焙煎コーヒーショップを開業するまで⑤

高校生活

わたしはなんとか地元の高校に進学したものの、相変わらず授業はサボりがちで、最初こそ努力したもののあまりに家庭環境が掛け離れた同級生たちともなんだか何を話していいか分からなくなり、わたしはいつも休み時間を廊下の傘立てで本を読んで過ごしていた。

わたしのクラスの一つ隣の部屋が図書室であった事もあり、高校の司書の先生には近代文学を読み込む今時珍しい子供だと気に入られ、たまに図書室で授業をサボることに目をつぶってくれた。

クラスで悪目立ちしていたわたしを授業中もクラスメイトはチラチラと眺めてニタニタ笑いながら陰口を言うのでとても居心地は悪かった。それでも勉強は好きだったから自分で教科書に齧り付いて勉強したし、気が向かないときは机に置いた筆箱隠したiPodで授業を録音して、図書室かトイレで授業をサボった。

たまに途中で学校を抜け出して、家の近くの神社で読書をして過ごしたりもした。わたしの家庭環境のことは学校に伝わっていたのだろう、授業をサボろうが注意してくる先生は誰もいなかった。

平日の晴れた昼間の神社はとても心地よい。開けていて、静かで、黄土色の土が太陽光を反射して境内全体が淡く発光しているように感じる。
iPodのラジオでクラシックが流れていて京内でそれを聴きながら本を読む時間が好きだった。

その頃のわたしにはいつでも文学が側にあったから生きられたのだと思う。もととと本はよく読んでいたが、純文学との出会いは高校一年生の時に現代文の授業で学んだ芥川龍之介の『羅生門』だった。生々しく描かれた人の弱さや汚さ、戦時中に生きる事の大変さや人の善悪。いままで読んできた本とのあまりに違った質感にわたしは慄いた。そこからは近代文学作家の小説を図書室で借りたり、バイト代をはたいてブックオフの100円の棚で買って読み漁った。

思春期の文学少女にありがちだが、最初は破滅的な生き方をする太宰治に深く傾倒し、夏目漱石、川端康成の『雪国』や三島由紀夫の『金閣寺』日本近代文学の名作はほとんど読み、何がきっかけなのかいつのまにか村上春樹に入れ込むようになっていた。

現代文の授業は趣味の延長のようなものだった。夏目漱石の『こころ』は教科書には一部しか載っていないので原作を持ち込んで全文を読みながら読解し、その美しい文章に心打たれた。 
『舞姫』主人公のあまりの責任感の無さや男の狡さ弱さのようなものに本気で怒った。
次は村上春樹の『レキシントンの幽霊』を授業でやってくださいと先生に懇願した。
『ノルウェイの森』を片手に持つ私に、現代文の女性の先生は「村上春樹は高校生には刺激が強いよ」と、どこか嬉しそうにニヤリと笑った。

小説を読むことは私にとって、どう生き延びればいいのかという答えを探るようなものだった。
すがるように幾つもの文章を読み、主人公に自分を重ねた。
村上春樹好きがみんなそう思うように、この作品は自分のことを描いているんだと思った。
特に『海辺のカフカ』なんかは顕著で、カラスと呼ばれる少年のセリフの「君はこれから世界でいちばんタフな15歳の少年にならなくちゃいけないんだ。なにがあろうとさ。そうする以外に君がこの世界を生きのびていく道はないんだからね。そしてそのためには、ほんとうにタフであるというのがどういうことなのか、君は自分で理解しなくちゃならない。」と言う言葉に自分を奮い立たせた。

本を読むと言うことは私にとって生きること、呼吸をすることと同義で、反面本を読めば読むほどわたしは現実で誰とも馴染めなくなっていった。
だけど、本を読み、誰かの人生に触れている間は、親に愛されないこと、着る服を満足に与えてもらえないこと、誕生日やクリスマスに何ももらえないこと、父に殴られたり怒鳴られることを忘れて私はどんなところにでも行くことができた。

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