「他人の幸せと自分の幸せは違う」

 よく自分の幸せはだれかの幸せを犠牲にして成り立っていると思う場面が日常にはある。食事を作る母親、洗濯物を洗う母親、これはそうだろうか。ちょっと待ってほしい。母親は不幸にも洗濯をしているのではなく、生活に必要な営みだから洗濯しているのである。洗濯をしないとどうだろうか、汚いシャツ、汚いズボン、不幸の塊である。不幸にならないため、もしくはそれをすることが幸せだから洗濯しているのである。幸せ=清潔さととらえてみてほしい。または、食事をつくること=幸せをつくることと捉えてみてほしい。とても崇高な儀礼である。
 少し見方を変えてみて、いじめの場面を想定してほしい。いじめの場面では、いじめる側は幸せで、いじめられる側は不幸せである。いじめの場面は家庭にはないと思いたいが、あるにはあるのである。説教=いじめである。説教をしている間、亭主は不機嫌である。しかしながら、いじめる側である亭主は説教が幸せを作る営みだと思っているから幸せなのである。
 最初の話題に戻ろう。他人の幸せと自分の幸せは違う。それは見方を変えると、いじめの問題に行き着く。また、自分では不幸せな営みだと思っていても、当人にとっては幸せをつくる営みであるから、幸せである例にも行き着く。こうして、幸せな営みは誰かから搾取することによって成り立っていたり、独自に幸せを作る営みとして成り立っている。

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